、一町許り行くと、傾き合つた汚《きたな》らしい、家と家の間から、家路が左へ入る。路は此処から、水車場の前の小橋を渡つて、小高い広い麦畑を過ぎて、坂を下りて、北上川に架けられた、鶴飼橋《つるかひばし》といふ吊橋を渡つて、十町許りで大字川崎の小川家に行く。落ちかけた夏の日が、熟して割れた柘榴《ざくろ》の色の光線を、青々とした麦畑の上に流して、真面《まとも》に二人の顔を彩つた。
信吾は何気ない顔をして歩き乍らも、心では清子の事を考へてゐた。僅か二十分許りの間、座には静子も居れば、加藤の母や慎次も交る/″\挨拶に出た。信吾は極く物慣れた大人振つた口をきいた。清子は茶を薦《すす》め菓子を薦めつゝ唯|雅《しとや》かに、口数は少なかつた。そして男の顔を真面には得見《えみ》なかつた。
唯一度、信吾は対手を「奥様《おくさん》」と呼んで見た。清子は其時|俯《うつむ》いて茶を注《つ》いでゐたが、返事はしなかつた。また顔も上げなかつた。信吾は女の心を読んだ。
清子の事を考へると言つても、別に過ぎ去つた恋を思出してゐるのではない。また、予期してゐた様な不快を感じて来たのでもない。寧ろ、一種の満足の情が信吾
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