た。
『呀《おや》!』と振返つた信吾は笑顔を作つて、『貴女もモウ帰るんですか?』
『ハ、其辺《そこいら》まで御同伴《ごいつしよ》。』と馴々敷《なれなれしく》言ひ乍ら、羞《はにか》む色もなく男と並んで、『マア私《わたし》の方が這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に小い!』
 矢張《やはり》女教師の、神山富江といつて、女にして背の低い方ではないが、信吾と並んでは肩先までしか無い。それは一つは、葡萄色《えびいろ》の緒の、穿き減した低い日和下駄を穿いてる為でもある。肉の緊つた青白い細面の、醜い顔ではないが、少し反歯《そつぱ》なのを隠さうとする様に薄い唇を窄《すぼ》めてゐる。かと思へば、些細の事にも其歯を露出《むきだし》にして淡白《きさく》らしく笑ふ。よく物を言ふ眼が間断《ひま》なく働いて、解《ほど》けば握《て》に余る程の髪は漆黒《くろ》い。天賦《うまれつき》か職業柄か、時には二十八といふ齢に似合はぬ若々しい挙動《そぶり》も見せる。一つには未《ま》だ子を有たぬ為でもあらう。
 富江には夫がある。これも盛岡で学校教師をしてゐるが、人の噂では二度
前へ 次へ
全217ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング