敷居を跨げば、大きく焚火の炉を切つた、田舎風の広い台所で、其炉の横の滑りの悪い板戸を開けると、六畳の座敷になつてゐる。隔ての煤《すす》びた障子一重で、隣りは老母の病室――畳を布いた所は此|二室《ふたま》しかないのだ。
東向に格子窓があつて、室《へや》の中は暗くはない。畳も此処は新しい。が、壁には古新聞が手際悪く貼られて、真黒《まつくろ》に煤びた屋根裏が見える、壁側に積重ねた布団には白い毛布が被《かか》つて、其《それ》に並んだ箪笥の上に、枕時計やら鏡台やら、種々《いろん》な手廻りの物が整然《きちん》と列べられた。
脱いだ袴を畳んで、桃色メリンスの袴下《はかました》を、同じ地の、大きく菊模様を染めた腹合せの平生《ふだん》帯に換へると、智恵子は窓の前の机に坐つて、襟を正して新約全書《バイブル》を開いた。――これは基督教信者《クリスチヤン》なる智恵子の自ら定めた日課の一つ。五時間の授業に相応に疲れた心の兎《と》もすれば弛むのを、恁《か》うして励まさうとするのだ。
展《ひら》かれたのは、モウ手癖のついてゐる例《いつも》の馬太《マタイ》伝第二十七章である。智恵子は心を沈めて小声に読み出した。
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