。』と言つて、吉野は強く女の手を握つた。女も握り返した。
『好い月ですわねえ!』
 智恵子は猶去り難気《がたげ》に恁《か》う言つた。そして、皆にも挨拶して一人宿の方へ帰つてゆく。月を浴びた其後姿を、吉野は少し群から離れた所に蹲んで、遠く見送つてゐた。
 智恵子は痛む腹に力を入れて、堅く歯を喰絞りながら、幾回《いくたび》か背後《うしろ》を振返つた。町の賑ひは踊の場所に集つて、十間離れたらモウ人一人ゐない。霜の置いたかと許り明るい月光に、所々|樺火《かばび》の趾《あと》が黒く残つて、軒々の提灯や行燈は半ば消えた。
 天心の月は、智恵子の影を短く地《つち》に印《しる》した。太鼓の響と何十人の唄声とは、その月までも届くかと、風なき空に漂うてゆく。――華やかな舞楽の場《には》から唯一人帰る智恵子は、急に己《おの》が宿が可厭《いや》になつた。
 と言つて、足は矢張宿の方へ動く。送つて来てくれぬ男を怨めしくも思つた。アノ人が東京へ帰ると、屹度今夜のことを[#「今夜のことを」は底本では「今夜ののことを」]手紙に書いて寄越すだらうとも思つた。そして、二人間に取交された約束が、唯一生忘れまいといふ事だけな
前へ 次へ
全217ページ中193ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング