にも、智恵子の顔の書かれてあることは、静子は遂に知らなかつた。
 間もなく庭に下駄の音がした。静子は妙に躊躇《ためら》つた上で、急いで再《また》離室に来た。一枚残した雨戸から、恰度吉野が上るところ、
『怎《ど》うも遅くなつちやつて。』
『否《いいえ》。お帰り遊ばせ。』
 恁《か》う云つたが、男の顔を見る事は出来なかつた。俯向《うつむ》いた顔は仄《ほんの》りと紅かつた。急いで洋燈を明るくする。
『実に済みませんでした。這※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]《こんな》に遅くなる積ぢやなかつたんですが……。』
『否《いいえ》、貴方。アノ、兄はお酒を過して頭痛がすると言つて、お先に……。』
『然うですか。僕はスツカリ醒めちやつた。モウ何時頃でせう?』
『十時、で御座いませう。』
 吉野はドカリと机の前に座つた。ト静子は、今し方自分が其処に座つた事が心に浮んで、
『お寝み遊ばせ。』
と言ふより早く障子を閉めて縁側に出た。吉野はグタリと首を垂れて眼を瞑《つぶ》つた。着衣《きもの》はシツトリと夜気に萎《な》えてゐる。裾やら袖やら、川で濡らした此|着衣《きもの
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