》で、顔は男の体から離しともなく、二足三足、足は男に縺《もつ》れる。
『日向|様《さん》!』と男は足を留《と》めた。
『お許し下さい!』と絶入る様。
『僕は東京へ帰りませう!』
と言ふ目は眤と暗い処を見てゐる。
『……何故《なぜ》で御座います?』
『……余《あんま》り不思議です、貴女と僕の事が。』
『…………』
『帰りませう! 其方が可い。』
『遣りません!』と智恵子は烈しく言つて、男の首を強く絞める。
『あゝ――』と吉野は唸る様に言つた。
『お、お解りに、なりますまい、私のこ、心が……。』
『日向様!』と、男の声も烈しく顫へた。『其言葉を、僕は、聞きたくなかつた!』
矢庭に二つの顔が相触れた。熟した麦の香の漂ふ夜路に、熱《あたた》かい接吻《きす》の音が幽かに三度《みたび》四度《よたび》鳴つた。
(九)の七
其夜、母に呼ばれて母屋《おもや》へ行つた静子が、用を済まして再び庭に出て来た時は、モウ吉野の姿が見えなかつた。植込の蔭、築山の上、池の畔《ほとり》、それとなく尋ね廻つて見たが、矢張見えなかつた。
客は九時過になつて帰つた。父の信之は酔倒《ゑひたふ》れて了つた。お
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