全く神に背いて暮した様な気がして来た。『神に遁れる、といふ様な事も有得るですね。』と、何時だつたか信吾の謂つた言葉も思出された。智恵子の若い悲哀《かなしみ》は深くなつた。遂に讃美歌を歌ひ出した。
『……やーみ路《ぢ》をー、てーらせりー、かーみはーあーいーなりー。』
「愛」といふ語が何がなく懐しかつた。そして又繰り返した。『……あーいーなりー……。』
下駄の音が橋に伝はつた。智恵子は鋭敏にそれを感じて、ツと振返つた。が、待構へてでも居た様に、不思議に動悸もしない。其人とは虫が知らしたのだが……。
(九)の三
『日向|様《さん》ぢやありませんか?』
恁《か》う言つて、吉野は近いて来た。
『マア、貴方で御座いましたか! 昨日《さくじつ》は失礼致しました。』
『僕こそ。』と言ひながら、男は少許《すこし》離れて鋼線《はりがね》の欄干に靠《もた》れた。『意外な所で再《また》お目にかかりましたね。貴女《あなた》お一人ですか?』
『否《いいえ》、小供達に強請《せが》まれて螢狩に。貴方も御散歩?』
『え。少し酒を飲まされたもんですから、密乎《こつそり》逃げ出して来たんです。実に好い晩で
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