、心地よく湿つた風が顔へ吹く。と、そのコンモリした奥から愉しさうな昼|杜鵑《ほととぎす》の声。
 声は小迷《さまよ》ふ様に、彼方此方《あちらこちら》、梢を渡つて、若き胸の轟きに調《しらべ》を合せる。
 智恵子は躍る様な心地になつて、ツト青葉の下蔭に潜《くぐ》り込んだ。

     (八)の三

 やや急な西向の傾斜、幾年《いくとせ》の落葉の朽ちた土に心地よく下駄が沈んで、緑の屋根を洩れる夏の日が、処々、虎斑《とらふ》の様に影を落して、そこはかとなく揺めいた。細き太き、数知れぬ樹々の梢は参差《しんし》として相交つてゐる。
 唆《そその》かす様な青葉の香が、頬を撫で、髪に戯れて、夏蔭の夢の甘さを吹く。
『ククヽヽクウ』と、すぐ頭の上、葉隠れに昼杜鵑が啼く。酔つた様な、愉しい様な、切ない様な、若い胸の底から漂ひ出る様な声だ。その声が、ク、ク、ク、と後を刻んで、何処ともなき青葉の※[#「王+倉」、254−下−9]《さや》ぎ!
 と、少し隔つた彼方《かなた》から、『ククヽヽクウ』と同じ声が起る。
『ククヽヽクウ、ククヽヽクウ。』と、背後《うしろ》の方からも。
『|漂へる声《ワンダリングブオイス》
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