94−57]事は無い、と自分で譴《たしな》めて見る、何時しか息遣ひが忙《せは》しくなつてゐる。
 取留《とりとめ》もなく気がソワついてるうちに歩くともなくモウ学校の門だ。衝《つ》と入つた。
 職員室の窓が開《あ》いて、細い釣竿が一間許り外に出てゐる。宿直の森川は、シヤツ一枚になつて、一生懸命釣道具を弄《いぢく》つてゐた。
 不図顔を上げると、
『オヤ日向|様《さん》、何日お帰りになりました?』
『ハ、アノ、昨日《きのふ》夕方に。』と、外に立つて頭《かしら》を下げる。洗ひ髪がさらりと肩から胸へ落つる。智恵子は、うるさい様にそれを手で後《うしろ》にやつた。
『面白かつたでせう? さ、マアお上りなさい。』
『否《いいえ》、アノ。』と息が少し切れる。『アノ私宛の手紙でも参つてゐませんでせうか?』
『奈何《どう》でしたか! あ、来ませんよ、神山|様《さん》の方の間違です。マお上りなさい。』
『ハ有難う御座います。一寸アノ、一寸、後《うしろ》の山へ行つて見ますから。』
『山へ? 茸狩はまだ早いですよ。ハハヽヽ。マ可《い》いでせう?』
『ハ、何れ明日でも。』と行掛《ゆきかけ》る。
『ア、日向|様《さ
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