て来た。
(七)の三
小川家の離室《はなれ》には、画家の吉野と信吾とが相対してゐる。吉野は三十分許り前に盛岡から帰つて来た所で、上衣を脱ぎ、白綾の夏|直衣《ちよつき》の、その鈕《ボタン》まで脱《はづ》して、胡坐《あぐら》をかいた。
その土産らしい西洋菓子の函を開き、茶を注《つ》いで、静子も其処に坐つた。母屋の方では、キヤツ/\と小妹《いもうと》共の騒ぐのが聞える。
『だからね。』と吉野は其友渡辺の噂を続けた。
『僕は中学の画の教師なんかやるのが抑《そもそ》も愚だと言つて遣つたんだ。奴だつて学校にゐた時分は夢を見たものよ。尤も僕なんかより遙《ずつ》と常識的な男でね。静物の写生なんかに凝つたものだ。だが奴が級友《なかま》の間でも色彩《いろ》の使ひ方が上手でね、活きた色彩を出すんだ。何色彩《なにいろ》を使つても習慣《コンベンシヨン》を破つてるから新しいんだよ。何時かの展覧会に出した風景と静物なんか、黒人《くろうと》仲間ぢや評判が好かつたんだよ。其奴《そいつ》が君、遊びに来た中学生に三宅の水彩画の手本を推薦してるんだからね。……僕は悲しかつたよ。否《いや》悲しいといふよりは癪
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