ことなき空の色に吸ひ取られた様で、彼は宛然《さながら》、二十《はたち》前後の青年の様な足調《あしどり》で、ツイと停車場の待合所に入つた。
 眩《まばゆ》い許りの戸外《そと》の明るさに慣れた眼には、人一人居ない此室《ここ》の暗さは土窟《つちあな》にでも入つた様で、暫しは何物《なに》も見えず、グラ/\と眩暈《めまひ》がしさうになつたので、吉野は思はず知らず洋杖《ステツキ》に力を入れて身を支へた。紛※[#「巾+兌」、243−上−19]《ハンケチ》を出して額の汗を拭き乍ら、衣嚢《かくし》の銀時計を見ると、四時幾分と聞いた発車時刻にモウ間がない。急いで盛岡行の赤切符を買つて改札口へ出ると、
『向側からお乗りなさい。』
と教へ乍ら背の低い駅夫が鋏を入れる。チラと其時、向側のプラツトホームに葡萄茶《えびちや》の袴を穿いた若い女の立つてゐるのが目についた。それは日向智恵子であつた。
 智恵子の方でも其時は気が付いて居たが、三四日前に橋の上で逢つた限《きり》、名も知り顔も知れど、口一つ利《き》いたではなし、さればと言つて、乗客と言つては自分と其男と唯二人、隠るべき様《やう》もないので、素知《そし》らぬ振
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