漸々《やうやう》霽《あが》つた。と、吉野は、買物|旁々《かたがた》、旧友に逢つて来ると言つて、其日の午後、一人盛岡に行くことになつた。

     (六)の二

 雨後の葉月空《はつきぞら》が心地よく晴渡つて、目を埋《うづむ》る好摩が原の青草は、緑の火の燃ゆるかと許り生々とした。
 小川の家では折角下男に送らせようと言つて呉れたのを断つて、教へられた儘の線路伝ひ、手には洋杖《ステツキ》の外に何も持たぬ背広|扮装《いでたち》の軽々《かろがろ》しさ、画家の吉野は今しも唯一人好摩|停車場《ていしやぢやう》に辿《たど》り着いた。
 男神《をがみ》の如き岩手山と、名も姿も優しき姫神山に挾まれて、空には塵一筋浮べず、溢るゝ許りの夏の光を漂はせて、北上川の上流に跨つた自然の若々しさは、旅慣れた身ながらに、吉野の眼にも新しかつた。その色彩の単純なだけに、心は何となき軽快を覚え、唆《そその》かす様な草葉の香りを胸深く吸つては、常になき健康を感じた。日頃、彼の頭脳《あたま》を支配してゐる、種々《いろいろ》の形象《かたち》と種々の色彩の混雑《こんがらが》つた様な、何がなしに気を焦立せる重い圧迫も、彼の老ゆる
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