といふ処へ入れば、今の人の様に叱られるんだぞ。』
『ハ。』と言つて、其児はピヨコリと頭を下げた。火傷《やけど》の痕の大きい禿が後頭部に光つた。
『忠一イ。忠一イ。』と、宿直室から校長の妻の呼ぶ声が洩れた。健と孝子は目と目で笑ひ合つた。
軈《やが》て、埃に染みた、黒の詰襟の洋服を着た校長の安藤が出て来て、健と代つて新入生を取扱かつた。健は自分の卓《つくゑ》に行つて、その受持の教務《しごと》にかゝつた。
九時半頃、秋野教師が遅刻の弁疏《いひわけ》を為《し》い/\入つて来て、何時も其室《そこ》の柱に懸けて置く黒繻子の袴を穿いた時は、後から/\と来た新入生も大方来尽して、職員室の中は空《す》いてゐた。健は卓の上から延び上つて、其処に垂れて居る索《なは》を続様《つづけざま》に強く引いた。壁の彼方《かなた》では勇しく号鐘《かね》が鳴り出す。今か/\とそれを待ちあぐんでゐた生徒等は、一しきり春の潮《うしほ》の湧く様に騒いだ。
五分とも経たぬうちに、今度は秋野がその鐘索《しようさく》を引いて、先づ控所へ出て行つた。と、健は校長の前へ行つて、半紙を八つに畳んだ一枚の紙を無造作に出した。
『これ書いて来ました。何卒《どうぞ》宜しく願ひます。』
笑ふ時目尻の皺の深くなる、口髯の下向いた、寒さうな、人の好さ相な顔をした安藤は、臆病らしい眼付をして其紙と健の顔を見比《みくら》べた。前夜訪ねて来て書式を聞いて行つたのだから、展《あ》けて見なくても解職願な事は解つてゐる。
そして、妙に喉に絡《から》まつた声で言つた。
『然うでごあんすか。』
『は。何卒《どうぞ》。』
綴ぢ了へた許りの新しい出席簿を持つて、立ち上つた孝子は、チラリと其畳んだ紙を見た。そして、健が四月に罷めると言ふのは予々《かねがね》聞いてゐた為であらう、それが若しや解職願ではあるまいかと思はれた。
『何と申して可いか……ナンですけれども、お決めになつてあるのだば為方《しかた》がない訳でごあんす。』
『何卒宜しく、お取り計ひを願ひます。』
と言つて健は、軽く会釈して、職員室を出て了つた。その後から孝子も出た。
控所には、級が新しくなつて列《なら》ぶべき場所の解らなくなつた生徒が、ワヤワヤと騒いでゐた。秋野は其間を縫つて歩いて、
『先《せん》の場所《ところ》へ列ぶのだ、先の場所へ。』
と叫んでゐるが、生徒等は、自分達が皆及第して上の級に進んだのに、今迄の場所に列ぶのが不見識な様にでも思はれるかして、仲々言ふことを聞かない。と見た健は、号令壇を兼ねてゐる階段の上に突立つて、
『何を騒いでゐる。』
と呶鳴つた。耳を聾する許りの騒擾《さわぎ》が、夕立の霽《は》れ上る様にサツと収つて、三百近い男女の瞳はその顔に萃《あつ》まつた。
『一同《みんな》今迄の場所《ところ》に今迄の通り列べ。』
ゾロ/\と足音が乱れて、それが鎮《しづま》ると、各級は皆規則正しい二列縦隊を作つてゐた。鬩乎《ひつそり》として話一つする者がない。新入生の父兄は、不思議相にしてそれを見てゐた。
渠は緩《ゆつく》りした歩調で階段を降りて、秋野と共に各級をその新しい場所に導いた。孝子は新入生を集めて列を作らしてゐた。
校長が出て来て壇の上に立つた。密々《ひそひそ》と話声が起りかけた。健は背後《うしろ》の方から一つ咳払ひをした。話声はそれで再《また》鎮つた。
『えゝ、今日から明治四十年度の新しい学年が始まります……』
と、校長は両手を邪魔相に前で揉みながら、低い、怖々《おづおづ》した様な声で語り出した。二分も経つか経たぬに、
『三年一万九百日。』
と高等科の生徒の一人が、妙な声色を使つて言つた。
『叱《し》ツ。』
と秋野が制した。潜笑《しのびわら》ひの声は漣《さゞなみ》の様に伝はつた。そして新しい密語《ひそめき》が其に交《まじ》つた。
それは恰度今の並木孝子の前の女教師が他村へ転任した時――去年の十月であつた。――安藤は告別の辞《ことば》の中で「三年一万九百日」と誤つて言つた。その女教師は三年の間この学校にゐたつたのだ。それ以来|年長《としかさ》の生徒は何時もこの事を言つては、校長を軽蔑する種にしてゐる。恰度この時、健もその事を思出してゐたので、も少しで渠も笑ひを洩らすところであつた。
密語《ひそめき》の声は漸々《だんだん》高まつた。中には声に出して何やら笑ふのもある。と、孝子は草履の音を忍ばせて健の傍《かたはら》に寄つて来た。
『先生が前の方へ被入《いらつしや》ると宜うござんす。』
『然うですね。』と渠も囁いた。
そして静かに前の方へ出て、階段の最も低い段の端の方へ立つた。場内はまた水を打つた様に※[#「門<嗅のつくり」、323−上−10]乎《ひつそり》とした。
不図渠は、諸有《あらゆる》生徒の目が、諄々《くどくど》と何やら話し続けてゐる校長を見てゐるのでなく、渠自身に注がれてゐるのに気が付いた。例《いつも》の事ながら、何となき満足が渠の情《こころ》を唆かした。そして、幽かに唇《くち》を歪めて微笑《ほほゑ》んで見た。其処にも此処にも、幽かに微笑んだ生徒の顔が見えた。
校長の話の済んで了ふまでも、渠は其処から動かなかつた。
それから生徒は、痩せた体の何処から出るかと許り高い渠の号令で、各々《おのおの》その新しい教室に導かれた。
四人の職員が再び職員室に顔を合せたのは、もう十一時に間のない頃であつた。学年の初めは諸帳簿の綴変《とぢか》へやら、前年度の調物の残りやらで、雑務が仲々多い。四人はこれといふ話もなく、十二時が打つまでも孜々《せつせ》とそれを行《や》つてゐた。
『安藤先生。』
と孝子は呼んだ。
『ハ。』
『今日の新入生は合計《みんな》で四十八名でございます。その内、七名は去年の学齢で、一昨年《をととし》ンのが三名ございますから、今年の学齢で来たのは三十八名しかありません。』
『然うでごあんすか。総体で何名でごあんしたらう?』
『四十八名でございます。』
『否《いいえ》、本年度の学齢児童数は?』
『それは七十二名といふ通知でございます、役場からの。でございますから、今日だけの就学歩合では六十六、六六七にしか成りません。』
『少いな。』と校長は首を傾げた。
『何有《なあに》、毎年今日はそれ位なもんでごあんす。』と、十年もこの学校にゐる土地者《ところもの》の秋野が喙《くち》を容れた。『授業の始まる日になれば、また二十人位ア来あんすでア。』
『少いなア。』と、校長はまた同じ事を言ふ。
『奈何《どう》です。』と健は言つた。『今日来なかつたのへ、明日《あす》明後日《あさつて》の中に役場から又督促さして見ては?』
『何有《なあに》、明々後日《やのあさつて》になれば、二十人は屹度来あんすでア。保険付だ。』と、秋野は鉛筆を削つてゐる。
『二十人来るにしても、三十八名に二十……残部《あと》十四名の不就学児童があるぢやありませんか?』
『督促しても、来るのは来るし、来ないのは来なごあんすぜ。』
『ハハヽヽ。』と健は訳もなく笑つた。『可《い》いぢやありませんか、私達が草鞋を穿いて歩くんぢやなし、役場の小使を歩かせるのですもの。』
『来ないのは来ないでせうなア。』と、校長は独語《ひとりごと》の様に意味のないことを言つて、卓《つくゑ》の上の手焙《てあぶり》の火を、煙管で突《つつ》いてゐる。
『一学年は並木さんの受持だが、御意見は奈何《どう》です?』
然う言ふ健の顔に、孝子は一寸薄目を与《く》れて、
『それア私の方は……』
と言出した時、入口の障子がガラリと開《あ》いて、浅黄がゝつた縞の古袷に、羽織も着ず、足袋も穿かぬ小造りの男が、セカ/\と入つて来た。
『やあ、誰かと思つたば東川《ひがしかは》さんか。』と、秋野は言つた。
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に喫驚《びつくり》する事はねえさ。』
然う言ひながら東川は、型の古い黒の中折を書類入の戸棚の上に載せて、
『やあお急《いそが》しい様でごあんすな。好《い》いお天気で。』
と、一同《みんな》に挨拶した。そして、手づから椅子を引寄せて、遠慮もなく腰を掛け、校長や秋野と二言三言話してゐたが、何やら気の急ぐ態度《やうす》であつた。その横顔を健は眤《じつ》と凝視《みつ》めてゐた。齢は三十四五であるが、頭の頂辺《てつぺん》が大分《だいぶ》円《まろ》く禿げてゐて、左眼《ひだりめ》が潰れた眼の上に度の強い近眼鏡をかけてゐる。小形の鼻が尖《とんが》つて、見るから一癖あり相な、抜目のない顔立である。
『時に、』と、東川は話の断目《きれめ》を待構へてゐた様に、椅子を健の卓に向けた。『千早先生。』
『何です?』
『実は其用で態々《わざわざ》来たのだがなす、先生、もう出したすか? 未《ま》だすか?』
『何をです?』
『何をツて。其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に白ばくれなくても可《よ》ごあんすべ。出したすか? 出さねえすか?』
『だから何をさ?』
『解らない人だなア。辞表をす。』
『あゝ、その事《こつ》ですか。』
『出したすか? 出さねえすか?』
『何故《なぜ》?』
『何故ツて。用があるから訊くのす。』
よくツケ/\と人を圧迫《おしつ》ける様な物言《ものいひ》をする癖があつて、多少の学識もあり、村で健が友人《ともだち》扱ひをするのは此男の外に無かつた。若い時は青雲の夢を見たもので、機会《をり》あらば宰相の位にも上らうといふ野心家であつたが、財産のなくなると共に徒《いたづ》らに村の物笑ひになつた。今では村会議員に学務委員を兼ねてゐる。
『出しましたよ。』と、健は平然《けろり》として答へた。
『真箇《ほんと》すか?』と東川は力を入れる。
『ハヽヽヽ。』
『だハンテ若い人は困る。人が甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に心配してるかも知らないで、気ばかり早くてさ。』
『それ/\、煙草の火が膝に落ちた。』
『これだ!』と、呆れた様な顔をしながら、それでも急いで吸殻を膝から払ひ落して、『先生、出したつても今日の事だがら、まだ校長の手許にあるベアハンテ、今の間《うち》に戻してござれ。』
『何故《なぜ》?』
『いやサ、詳しく話さねえば解らねえが……実はなす、』
と穏かな調子になつて、『今日何も知らねえで役場さ来てみたのす。そすると種市助役が、一寸別室、て呼ぶだハンテ、何だど思つて行つて見だば先生の一件さ。昨日逢つた時、明日辞表を出すつてゐだつけが、何しろ村教育も漸々《やうやう》発展の緒に就いた許りの時だのに、千早先生に罷められては誠に困る。それがと言つて今は村長も留守で、正式に留任勧告をするにも都合が悪い。何《いづ》れ二三日中には村長も帰るし、七日には村会も開かれるのだから、兎も角もそれまでは是非待つて貰ひたいと言ふのでなす、それで畢竟《つまり》は種市助役の代理になつて、今俺ア飛んで来たどころす。解つたすか?』
『解るには解つたが、……奈何《どう》も御苦労でした。』
『御苦労も糞も無《ね》えが、なす、先生、然う言ふ訳だハンテ、何卒《どうか》一先《ひとまづ》戻して貰つてござれ。』
戻して貰へ、といふ、その「貰へ」といふ語《ことば》が驕持心《ほこり》の強い健の耳に鋭く響いた。そして、適確《きつぱり》した調子で言つた。
『出来ません、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事は。』
『それだハンテ困る。』
『御好意は充分有難く思ひますけれど、為方がありません、出して了つた後ですから。』
秋野も校長も孝子も、鳴《なり》を潜めて二人の話を聞いてゐた。
『出したと言つたところです、それが未だ学校の中にあるのだば、謂はゞ未だ内輪だけの事でアねえすか?』
『東川さん、折角の御勧告は感謝しますけれど、貴方は私の気性を御存知の筈です。私は一旦出して了つたのは、奈何《どう》あつても、譬へそれが自分に不利益であ
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