女教師の自分よりも生徒に侮《あなど》られてゐた。孝子は師範女子部の寄宿舎を出てから二年とは経たず、一生を教育に献げようとは思はぬまでも、授業にも読書にもまだ相応に興味を有《も》つてる頃ではあり、何処《どこ》か気性の確固《しつかり》した、判断力の勝つた女なので、日頃校長の無能が女ながらも歯痒《はがゆ》い位。殊にも、その妻のだらしの無いのが見るも厭で、毎日顔を合してゐながら、碌そつぽ口を利かぬことさへ珍しくない。そして孝子には、万事《よろづ》に生々とした健の烈しい気性――その気性の輝いてゐる、笑ふ時は十七八の少年の様に無邪気に、真摯《まじめ》な時は二十六七にも、もつと上にも見える渠の眼、(それを孝子は、写真版などで見た奈勃翁《ナポレオン》の眼に肖《に》たと思つてゐた。)――その眼が此学校の精神《たましひ》でゞもあるかの様に見えた。健の眼が右に動けば、何百の生徒の心が右に行く、健の眼が左に動けば、何百の生徒の心が左に行く、と孝子は信じてゐた。そして孝子自身の心も、何時しか健の眼に随つて動く様になつてゐる事は、気が付かずにゐた。
 齢から言へば、孝子は二十三で、健の方が一歳《ひとつ》下の弟である。が、健は何かの事情で早く結婚したので、その頃もう小児《こども》も有つた。そして其《その》家《うち》が時として其日の糧《かて》にも差支へる程貧しい事は、村中知らぬ者もなく、健自身も別段隠す態《ふう》も見せなかつた。或日、健は朝から浮かぬ顔をして、十分の休み毎に呟呻許《あくびばか》りしてゐた。
『奈何《どう》なさいましたの、千早先生、今日はお顔色が良くないぢやありませんか?』
と孝子は何かの機会《ひやうし》に訊いた。健は出かゝつた生※[#「口+去」、第3水準1−14−91]呻《なまあくび》を噛んで、
『何有《なあに》。』
と言つて笑つた。そして、
『今日は煙草が切れたもんですからね。』
 孝子は何とも言ふことが出来なかつた。健が平生《へいぜい》人に魂消《たまげ》られる程の喫煙家で、職員室に入つて来ると、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》事があらうと先づ煙管《キセル》を取上げる男であることは、孝子もよく知つてゐた。卓隣りの秋野は其煙草入を出して健に薦《すす》めたが、渠は其日一日|喫《の》まぬ積りだつたと見えて、煙管も持つて来てゐなかつた。そして、秋野の煙管を借りて、美味《うま》さうに二三服続け様に喫《の》んだ。孝子はそれを見てゐるのが、何がなしに辛かつた。宿へ帰つてからまで其事を思出して、何か都合の好い名儀をつけて、健に金を遣る途はあるまいかと考へた事があつた。又、去年の一夏、健が到頭|古袷《ふるあはせ》を着て過した事、それで左程暑くも感じなかつたといふ事なども、渠《かれ》自身の口から聞いてゐたが、村の噂はそれだけではなかつた。其夏、毎晩夜遅くなると、健の家《うち》――或る百姓家を半分|劃《しき》つて借りてゐた――では障子を開放《あけはな》して、居たたまらぬ位杉の葉を燻《いぶ》しては、中で頻《しき》りに団扇で煽《あふ》いでゐた。それは多分蚊帳が無いので、然うして蚊を逐出してから寝たのだらうといふ事であつた。其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に苦しい生活をしてゐて、渠には些《ちつ》とも心を痛めてゐる態《ふう》がない。朝から晩まで、真《しん》に朝から晩まで、小供等を対手に怡々《いい》として暮らしてゐる。孝子が初めて此学校に来た秋の頃は、毎朝|昧爽《よあけ》から朝飯時まで、自宅に近所の小供等を集めて「朝読《あさよみ》」といふのを遣つてゐた。朝な/\、黎明《しののめ》の光が漸く障子に仄《ほの》めいた許《ばか》りの頃、早く行くのを競つてゐる小供等――主に高等科の――が、戸外《そと》から声高に友達を呼起して行くのを、孝子は毎朝の様にまだ臥床《とこ》の中で聞いたものだ。冬になつて朝読が出来なくなると、健は夜な/\九時頃までも生徒を集めて、算術、読方、綴方から歴史や地理、古来《むかしから》の偉人の伝記逸話、年上の少年には英語の初歩なども授けた。この二月村役場から話があつて、学校に壮丁教育の夜学を開いた時は、三週間の期間を十六日まで健が一人で教へた。そして終ひの五日間は、毎晩裾から吹上《ふきあげ》る夜寒を怺《こら》へて、二時間も三時間も教壇に立つた為に風邪を引いて寝たのだといふ事であつた。
 それでゐて、健の月給は唯《たつた》八円であつた。そして、その八円は何時《いつ》でも前借《ぜんしやく》になつてゐて、二十一日の月給日が来ても、いつの月でも健には、同僚と一緒に月給の渡されたことがない。四人分の受領書を持つて行つた校長が、役場から帰つて来ると、孝子は大抵|紙幣《さつ》と銀貨を交《ま》ぜて十二円渡される。検定試験上りの秋野は十三円で、古い師範出の校長は十八円であつた。そして、校長は気毒相《きのどくさう》な顔をしながら、健には存在《ぞんざい》な字で書いた一枚の前借証を返してやる。渠は平然《けろり》としてそれを受取つて、クル/\と円めて火鉢に燻《く》べる。淡い焔がメラ/\と立つかと見ると、直ぐ消えて了ふ。と、渠は不揃な火箸を取つて、白くなつて小《ちひさ》く残つてゐる其灰を突《つつ》く。突いて、突いて、そして上げた顔は平然《けろり》としてゐる。
 孝子は気毒《きのどく》さに見ぬ振をしながらも、健のその態度《やうす》をそれとなく見てゐた。そして訳もなく胸が迫つて、泣きたくなることがあつた。其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》時は、孝子は用もない帳簿などを弄《いぢく》つて、人後《ひとあと》まで残つた。月給を貰つた為に怡々《いそいそ》して早く帰るなどと、思はれたくなかつたのだ。
 孝子の目に映つてゐる健は、月給八円の代用教員ではなかつた。孝子は或る時その同窓の女友達の一人へ遣つた手紙に、この若い教師のことを書いたことがある。若しや詰らぬ疑ひを起されてはといふ心配から、健には妻子のあることを詳しく記した上で、
『私の学校は、この千早先生一人の学校といつても可《い》い位よ。奥様《おくさん》やお子様《こさん》のある人とは見えない程若い人ですが、男生でも女生でも千早先生の言ふことをきかぬ者は一人もありません。そら、小野田教諭がいつも言つたでせう――教育者には教育の精神を以て教へる人と、教育の形式で教へる人と、二種類ある。後者には何人でも成れぬことはないが、前者は百人に一人、千人に一人しか無いもので、学んで出来ることではない、謂はば生来《うまれつき》の教育者である――ツて。千早先生はその百人に一人しかない方の組よ。教授法なんかから言つたら、先生は乱暴よ、随分乱暴よ。今の時間は生徒と睨《にら》めツクラをして、敗けた奴を立たせることにして遊びましたよなどゝ言ふ時があります。(遊びました)といふのは嘘で、先生は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事をして、生徒の心を散るのを御自分の一身に集《あつめ》るのです。さうしてから授業に取《とり》かゝるのです。偶《たま》に先生が欠勤でもすると、私が掛持で尋常二年に出ますの。生徒は決して私ばかりでなく、誰のいふことも、聞きません。先生の組の生徒は、先生のいふことでなければ聞きません。私は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]時、「千早先生はさう騒いでも可《い》いと教へましたか?」と言ひます。すると、直ぐ静粛になつて了ひます。先生は又、教案を作りません。その事で何日《いつ》だつたか、巡《まは》つて来た郡視学と二時間許り議論をしたのよ。その時の面白かつたこと? 結局視学の方が敗けて胡麻化《ごまくわ》して了つたの。
『先生は尋常二年の修身と体操を校長にやらして、その代り高等科(校長の受持)の綴方と歴史地理に出ます。今度は千早先生の時間だといふ時は、鐘が鳴つて控所に生徒の列んだ時、その高等科の生徒の顔色で分ります。
『尋常二年に由松といふ児があります。それは生来《うまれつき》の低脳者で、七歳《ななつ》になる時に燐寸《マツチ》を弄《もてあ》そんで、自分の家《うち》に火をつけて、ドン/\燃え出すのを手を打つて喜んでゐたといふ児ですが、先生は御自分の一心で是非由松を普通《あたりまへ》の小供にすると言つて、暇さへあればその由松を膝の間に坐らせて、(先生は腰かけて、)上から眤《じつ》と見下しながら、肩に手をかけて色々なことを言つて聞かせてゐます。その時だけは由松も大人しくしてゐて、終ひには屹度《きつと》メソ/\泣出して了ひますの。時として先生は、然うしてゐて十分も二十分も黙つて由松の顔を見てゐることがあります。二三日前でした、由松は先生と然うしてゐて、突然眼を瞑《つぶ》つて背後《うしろ》に倒れました。先生は静かに由松を抱いて小使室へ行つて、頭に水を掛けたので小供は蘇生しましたが、私共は一時|喫驚《びつくり》しました。先生は、「私の精神と由松の精神と角力《すまふ》をとつて、私の方が勝つたのだ。」と言つて居られました。その由松は近頃では清書なんか人並に書く様になりました。算術だけはいくら骨を折つても駄目ださうです。
『秀子さん、そら、あの寄宿舎の談話室ね、彼処《あそこ》の壁にペスタロツヂが小供を教へてゐる画が掲《か》けてあつたでせう。あのペスタロツヂは痩せて骨立つた老人でしたが、私、千早先生が由松に物を言つてるところを横から見てゐると、何といふことなくあの画を思出すことがありますの。それは先生は、無論一生を教育事業に献げるお積りではなく、お家の事情で当分あゝして居られるのでせうが、私は恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》人を長く教育界に留めて置かぬのが、何より残念な事と思ひます。先生は何か人の知らぬ大きな事を考へて居られる様ですが、私共には分りません。然しそのお話を聴いてゐると、常々私共の行きたい/\と思つてる処――何処《どこ》ですか知りませんが――へ段々連れて行かれる様な気がします。そして先生は、自分は教育界|獅子《しし》身中の虫だと言つて居られるの。又、今の社会を改造するには先づ小学教育を破壊しなければいけない、自分に若し二つ体があつたら、一つでは一生代用教員をしてゐたいと言つてます。奈何《どう》して小学教育を破壊するかと訊くと、何有《なあに》ホンの少しの違ひです、人を生れた時の儘《まんま》で大きくならせる方針を取れや可いんですと答へられました。
『然し秀子さん、千早先生は私にはまだ一つの謎です。何処か分らないところがあります。ですけれども、毎日同じ学校にゐて、毎日先生の為さる事を見てゐると、どうしても敬服せずには居られませんの。先生は随分苦しい生活をして居られます。それはお気毒な程です。そして、先生の奥様《おくさん》といふ人は、矢張好い人で、優しい、美しい(但し色は少し黒いけれど、)親切な方です。……』
と書いたものだ。実際それは孝子の思つてゐる通りで、この若い女教師から見ると、健が月末の出席|歩合《ぶあひ》の調べを怠けるのさへ、コセ/\した他の教師共より偉い様に見えた。
 が、流石は女心で、例へば健が郡視学などと揶揄《からかひ》半分に議論をする時とか、父の目の前で手厳しく忠一を叱る時などは、傍《はた》で見る目もハラ/\して、顔を挙げ得なかつた。
 今も、健が声高に忠一を叱つたので、宿直室の話声が礑《はた》と止んだ。孝子は耳敏くもそれを聞付けて忠一が後退《あとしざ》りに出て行くと、
『マア、先生は!』
と低声《こごゑ》に言つて、口を窄《すぼ》めて微笑みながら健の顔を見た。
『ハヽヽヽ。』と、渠は軽《かろ》く笑つた。そして、眼を円《まろ》くして直ぐ前に立つてゐる新入生の一人に、
『可《い》いか。お前も学校に入ると、不断先生の断りなしに入つては不可《いけな》い
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