る。が、健は何かの事情で早く結婚したので、その頃もう小児《こども》も有つた。そして其《その》家《うち》が時として其日の糧《かて》にも差支へる程貧しい事は、村中知らぬ者もなく、健自身も別段隠す態《ふう》も見せなかつた。或日、健は朝から浮かぬ顔をして、十分の休み毎に呟呻許《あくびばか》りしてゐた。
『奈何《どう》なさいましたの、千早先生、今日はお顔色が良くないぢやありませんか?』
と孝子は何かの機会《ひやうし》に訊いた。健は出かゝつた生※[#「口+去」、第3水準1−14−91]呻《なまあくび》を噛んで、
『何有《なあに》。』
と言つて笑つた。そして、
『今日は煙草が切れたもんですからね。』
 孝子は何とも言ふことが出来なかつた。健が平生《へいぜい》人に魂消《たまげ》られる程の喫煙家で、職員室に入つて来ると、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》事があらうと先づ煙管《キセル》を取上げる男であることは、孝子もよく知つてゐた。卓隣りの秋野は其煙草入を出して健に薦《すす》めたが、渠は其日一日|喫《の》まぬ積りだつたと見えて、煙管も持つて来てゐなか
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