女教師の自分よりも生徒に侮《あなど》られてゐた。孝子は師範女子部の寄宿舎を出てから二年とは経たず、一生を教育に献げようとは思はぬまでも、授業にも読書にもまだ相応に興味を有《も》つてる頃ではあり、何処《どこ》か気性の確固《しつかり》した、判断力の勝つた女なので、日頃校長の無能が女ながらも歯痒《はがゆ》い位。殊にも、その妻のだらしの無いのが見るも厭で、毎日顔を合してゐながら、碌そつぽ口を利かぬことさへ珍しくない。そして孝子には、万事《よろづ》に生々とした健の烈しい気性――その気性の輝いてゐる、笑ふ時は十七八の少年の様に無邪気に、真摯《まじめ》な時は二十六七にも、もつと上にも見える渠の眼、(それを孝子は、写真版などで見た奈勃翁《ナポレオン》の眼に肖《に》たと思つてゐた。)――その眼が此学校の精神《たましひ》でゞもあるかの様に見えた。健の眼が右に動けば、何百の生徒の心が右に行く、健の眼が左に動けば、何百の生徒の心が左に行く、と孝子は信じてゐた。そして孝子自身の心も、何時しか健の眼に随つて動く様になつてゐる事は、気が付かずにゐた。
齢から言へば、孝子は二十三で、健の方が一歳《ひとつ》下の弟であ
前へ
次へ
全43ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング