に学務委員を兼ねてゐる。
『出しましたよ。』と、健は平然《けろり》として答へた。
『真箇《ほんと》すか?』と東川は力を入れる。
『ハヽヽヽ。』
『だハンテ若い人は困る。人が甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に心配してるかも知らないで、気ばかり早くてさ。』
『それ/\、煙草の火が膝に落ちた。』
『これだ!』と、呆れた様な顔をしながら、それでも急いで吸殻を膝から払ひ落して、『先生、出したつても今日の事だがら、まだ校長の手許にあるベアハンテ、今の間《うち》に戻してござれ。』
『何故《なぜ》?』
『いやサ、詳しく話さねえば解らねえが……実はなす、』
と穏かな調子になつて、『今日何も知らねえで役場さ来てみたのす。そすると種市助役が、一寸別室、て呼ぶだハンテ、何だど思つて行つて見だば先生の一件さ。昨日逢つた時、明日辞表を出すつてゐだつけが、何しろ村教育も漸々《やうやう》発展の緒に就いた許りの時だのに、千早先生に罷められては誠に困る。それがと言つて今は村長も留守で、正式に留任勧告をするにも都合が悪い。何《いづ》れ二三日中には村長も帰るし、七日には村会も開かれるのだから、兎も角もそれまでは是非待つて貰ひたいと言ふのでなす、それで畢竟《つまり》は種市助役の代理になつて、今俺ア飛んで来たどころす。解つたすか?』
『解るには解つたが、……奈何《どう》も御苦労でした。』
『御苦労も糞も無《ね》えが、なす、先生、然う言ふ訳だハンテ、何卒《どうか》一先《ひとまづ》戻して貰つてござれ。』
戻して貰へ、といふ、その「貰へ」といふ語《ことば》が驕持心《ほこり》の強い健の耳に鋭く響いた。そして、適確《きつぱり》した調子で言つた。
『出来ません、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]事は。』
『それだハンテ困る。』
『御好意は充分有難く思ひますけれど、為方がありません、出して了つた後ですから。』
秋野も校長も孝子も、鳴《なり》を潜めて二人の話を聞いてゐた。
『出したと言つたところです、それが未だ学校の中にあるのだば、謂はゞ未だ内輪だけの事でアねえすか?』
『東川さん、折角の御勧告は感謝しますけれど、貴方は私の気性を御存知の筈です。私は一旦出して了つたのは、奈何《どう》あつても、譬へそれが自分に不利益であつても取戻すことは厭です。内輪だらうが外輪だらうが、私は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》事は考へません。』
然う言つた健の顔は、もう例《いつも》の平然《けろり》とした態《さま》に帰つてゐて、此上いくら言つたとて動きさうにない。言ひ出しては後へ退《ひ》かぬ健の気性は、東川もよく知つてゐた。
東川は突然《いきなり》椅子を捻向けた。
『安藤先生。』
その声は、今にも喰つて掛るかと許り烈しかつた。嚇《おど》すナ、と健は思つた。
『ハ?』と言つて、安藤は目の遣場《やりば》に困る程|周章《まごつ》いた。
『先生ア真箇《ほんたう》に千早先生の辞表を受取つたすか?』
『ハ。……いや、それでごあんすでは。今も申上げようかと思ひあんしたども、お話中に容喙《くちだし》するのも悪いと思つて、黙つてあんしたが、先刻《さつき》その、号鐘《かね》が鳴つて今始業式が始まるといふ時、お出しになりあんしてなす。ハ、これでごあんす。』と、硯箱の下から其解職願を出して、『何れ後刻《あと》で緩《ゆつく》りお話しようと思つてあんしたつたども、今迄その暇がなくて一寸此処にお預りして置いた訳でごあんす。何しろ思懸けないことでごあんしてなす。ハ。』
「その書式を教へたのは誰だ?」と健は心の中で嘲笑《あざわら》つた。
『然《さ》うすか、解職願お出しエんしたのすか? 俺ア少しも知らなごあんしたオなす。』と、秋野は初めて知つたと言ふ態《ふう》に言つた。『千早先生も又、甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》御事情だかも知れねえども、今急にお罷めアねえくとも宜うごあんすべアすか?』
『安藤先生、』と東川は呼んだ。『そせば先生も、その辞表を一旦お戻しやる積りだつたのだなす?』
『ハ、然うでごあんす。何《いづ》れ後刻《あと》でお話しようと思つて、受取つた訳でアごあんせん、一寸お預りして置いただけでごあんす。』
『お戻しやれ、そだら。』と、東川は命令する様な調子で言つた。『お戻しやれ、お聞きやつた様な訳で、今それを出されでア困りあんすでば。』
『ハ。奈何《どう》せ私も然う思つてだのでごあんすアハンテ、お戻しすあんす。』と、顔を曇らして言つて、頬を凹《へこ》ませてヂウ/\する煙管を強く吸つた。戻すも具合悪く、戻さぬも具
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