ど》と何やら話し続けてゐる校長を見てゐるのでなく、渠自身に注がれてゐるのに気が付いた。例《いつも》の事ながら、何となき満足が渠の情《こころ》を唆かした。そして、幽かに唇《くち》を歪めて微笑《ほほゑ》んで見た。其処にも此処にも、幽かに微笑んだ生徒の顔が見えた。
 校長の話の済んで了ふまでも、渠は其処から動かなかつた。
 それから生徒は、痩せた体の何処から出るかと許り高い渠の号令で、各々《おのおの》その新しい教室に導かれた。
 四人の職員が再び職員室に顔を合せたのは、もう十一時に間のない頃であつた。学年の初めは諸帳簿の綴変《とぢか》へやら、前年度の調物の残りやらで、雑務が仲々多い。四人はこれといふ話もなく、十二時が打つまでも孜々《せつせ》とそれを行《や》つてゐた。
『安藤先生。』
と孝子は呼んだ。
『ハ。』
『今日の新入生は合計《みんな》で四十八名でございます。その内、七名は去年の学齢で、一昨年《をととし》ンのが三名ございますから、今年の学齢で来たのは三十八名しかありません。』
『然うでごあんすか。総体で何名でごあんしたらう?』
『四十八名でございます。』
『否《いいえ》、本年度の学齢児童数は?』
『それは七十二名といふ通知でございます、役場からの。でございますから、今日だけの就学歩合では六十六、六六七にしか成りません。』
『少いな。』と校長は首を傾げた。
『何有《なあに》、毎年今日はそれ位なもんでごあんす。』と、十年もこの学校にゐる土地者《ところもの》の秋野が喙《くち》を容れた。『授業の始まる日になれば、また二十人位ア来あんすでア。』
『少いなア。』と、校長はまた同じ事を言ふ。
『奈何《どう》です。』と健は言つた。『今日来なかつたのへ、明日《あす》明後日《あさつて》の中に役場から又督促さして見ては?』
『何有《なあに》、明々後日《やのあさつて》になれば、二十人は屹度来あんすでア。保険付だ。』と、秋野は鉛筆を削つてゐる。
『二十人来るにしても、三十八名に二十……残部《あと》十四名の不就学児童があるぢやありませんか?』
『督促しても、来るのは来るし、来ないのは来なごあんすぜ。』
『ハハヽヽ。』と健は訳もなく笑つた。『可《い》いぢやありませんか、私達が草鞋を穿いて歩くんぢやなし、役場の小使を歩かせるのですもの。』
『来ないのは来ないでせうなア。』と、校長は独語《ひとりごと》の様に意味のないことを言つて、卓《つくゑ》の上の手焙《てあぶり》の火を、煙管で突《つつ》いてゐる。
『一学年は並木さんの受持だが、御意見は奈何《どう》です?』
 然う言ふ健の顔に、孝子は一寸薄目を与《く》れて、
『それア私の方は……』
と言出した時、入口の障子がガラリと開《あ》いて、浅黄がゝつた縞の古袷に、羽織も着ず、足袋も穿かぬ小造りの男が、セカ/\と入つて来た。
『やあ、誰かと思つたば東川《ひがしかは》さんか。』と、秋野は言つた。
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に喫驚《びつくり》する事はねえさ。』
 然う言ひながら東川は、型の古い黒の中折を書類入の戸棚の上に載せて、
『やあお急《いそが》しい様でごあんすな。好《い》いお天気で。』
と、一同《みんな》に挨拶した。そして、手づから椅子を引寄せて、遠慮もなく腰を掛け、校長や秋野と二言三言話してゐたが、何やら気の急ぐ態度《やうす》であつた。その横顔を健は眤《じつ》と凝視《みつ》めてゐた。齢は三十四五であるが、頭の頂辺《てつぺん》が大分《だいぶ》円《まろ》く禿げてゐて、左眼《ひだりめ》が潰れた眼の上に度の強い近眼鏡をかけてゐる。小形の鼻が尖《とんが》つて、見るから一癖あり相な、抜目のない顔立である。
『時に、』と、東川は話の断目《きれめ》を待構へてゐた様に、椅子を健の卓に向けた。『千早先生。』
『何です?』
『実は其用で態々《わざわざ》来たのだがなす、先生、もう出したすか? 未《ま》だすか?』
『何をです?』
『何をツて。其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に白ばくれなくても可《よ》ごあんすべ。出したすか? 出さねえすか?』
『だから何をさ?』
『解らない人だなア。辞表をす。』
『あゝ、その事《こつ》ですか。』
『出したすか? 出さねえすか?』
『何故《なぜ》?』
『何故ツて。用があるから訊くのす。』
 よくツケ/\と人を圧迫《おしつ》ける様な物言《ものいひ》をする癖があつて、多少の学識もあり、村で健が友人《ともだち》扱ひをするのは此男の外に無かつた。若い時は青雲の夢を見たもので、機会《をり》あらば宰相の位にも上らうといふ野心家であつたが、財産のなくなると共に徒《いたづ》らに村の物笑ひになつた。今では村会議員
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