足跡
石川啄木
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)村端《むらはづれ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)葉|一片《ひとつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)クリ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
−−
冬の長い国のことで、物蔭にはまだ雪が残つて居り、村端《むらはづれ》の溝に芹《せり》の葉|一片《ひとつ》青《あを》んではゐないが、晴れた空はそことなく霞んで、雪消《ゆきげ》の路の泥濘《ぬかるみ》の処々乾きかゝつた上を、春めいた風が薄ら温かく吹いてゐた。それは明治四十年四月一日のことであつた。
新学年始業式の日なので、S村尋常高等小学校の代用教員、千早健《ちはやたけし》は、平生より少し早目に出勤した。白墨《チヨオク》の粉に汚れた木綿の紋付に、裾の擦切れた長目の袴を穿いて、クリ/\した三分刈の頭に帽子も冠らず――渠《かれ》は帽子も有《も》つてゐなかつた。――亭乎《すらり》とした体を真直《まつすぐ》にして玄関から上つて行くと、早出の生徒は、毎朝、控所の彼方此方《かなたこなた》から駆けて来て、敬《うやうや》しく渠を迎へる。中には態々《わざわざ》渠に叩頭《おじぎ》をする許《ばつか》りに、其処に待つてゐるのもあつた。その朝は殊に其数が多かつた。平生《へいぜい》の三倍も四倍も……遅刻|勝《がち》な成績《でき》の悪い児の顔さへ其中に交つてゐた。健は直ぐ、其等の心々に溢れてゐる進級の喜悦《よろこび》を想うた。そして、何がなく心が曇つた。
渠はその朝解職願を懐にしてゐた。
職員室には、十人|許《ばか》りの男女《をとこをんな》――何れも穢《きたな》い扮装《みなり》をした百姓達が、物に怖《おび》えた様にキヨロ/\してゐる尋常科の新入生を、一人づゝ伴れて来てゐた。職員四人分の卓《つくゑ》や椅子、書類入の戸棚などを並べて、さらでだに狭くなつてゐる室は、其等の人数《にんず》に埋《うづ》められて、身動《みじろ》ぎも出来ぬ程である。これも今来た許りと見える女教師の並木孝子は、一人で其人数を引受けて少し周章《まごつ》いたといふ態《ふう》で、腰も掛けずに何やら急《いそ》がしく卓の上で帳簿を繰つてゐた。
そして、健が入つて来たのを見ると、
『あ、先生!』
と言つて、ホツと安心した様な顔をした。
百姓達は、床板に膝を突いて、交る/″\先を争ふ様に健に挨拶した。
『老婆《おばあ》さん、いくら探しても、松三郎といふのは役場から来た学齢簿の写しにありませんよ。』と、孝子は心持眉を顰《ひそ》めて、古手拭を冠つた一人の老女《としより》に言つてゐる。
『ハア。』と老女は当惑した様に眼をしよぼつかせた。
『無い筈はないでせう。尤《もつと》も此辺《このへん》では、戸籍上の名と家《うち》で呼ぶ名と違ふのがありますよ。』と、健は喙《くち》を容れた。そして老女《としより》に、
『芋田《いもだ》の鍛冶屋だつたね、婆さんの家《うち》は?』
『ハイ。』
『いくら見てもありませんの。役場にも松三郎と届けた筈だつて言ひますし……』と孝子はまた初めから帳簿を繰つて、『通知書を持つて来ないもんですから、薩張《さつぱり》分りませんの。』
『可怪《をかし》いなア。婆さん、役場から真箇《ほんと》に通知書が行つたのかい? 子供を学校に出せといふ書付が?』
『ハイ。来るにア来ましたども、弟の方のな許りで、此児《これ》(と顎で指して、)のなは今年ア来ませんでなす。それでハア、持つて来《こ》なごあんさす。』
『今年は来ない? 何だ、それぢや其児は九歳《ここのつ》か、十歳《とを》かだな?』
『九歳《ここのつ》。』と、その松三郎が自分で答へた。膝に補布《つぎ》を当てた股引を穿いて、ボロ/\の布の無尻《むじり》を何枚も/\着膨れた、見るから腕白らしい児であつた。
『九歳なら去年の学齢だ。無い筈ですよ、それは今年だけの名簿ですから。』
『去年ですか。私《わたし》は又、其点《そこ》に気が付かなかつたもんですから……』と、孝子は少しきまり悪気《わるげ》にして、其児の名を別の帳簿に書入れる。
『それぢや何だね、』と、健は再《また》老女の方を向いた。『此児《これ》の弟といふのが、今年|八歳《やつつ》になつたんだらう。』
『ハイ。』
『何故《なぜ》それは伴れて来ないんだ?』
『ハイ。』
『ハイぢやない。此児は去年から出さなけれアならないのを、今年まで延したんだらう。其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けた
次へ
全11ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング