板《ぬりいた》も有《も》たせねばならぬかとか、父兄は一人々々同じ様な事を繰返して訊く。孝子は一々それに答へる。すると今度は健の前に叩頭《おじぎ》をして、小供の平生《へいぜい》の行状やら癖やら、体の弱い事などを述べて、何分よろしくと頼む。新入生は後から/\と続いて狭い職員室に溢れた。
 忠一といふ、今度尋常科の三年に進んだ校長の長男が、用もないのに怖々《おづおづ》しながら入つて来て、甘える様《やう》の姿態《しな》をして健の卓《つくゑ》に倚掛《よりかか》つた。
『彼方《あつち》へ行け、彼方へ。』
と、健は烈しい調子で、隣室にも聞える様に叱つた。
『ハ。』
と言つて、猾《ずる》さうな、臆病らしい眼付で健の顔を見ながら、忠一は徐々《そろそろ》と後退《あとしざ》りに出て行つた。為様《しやう》のない横着《わうぢやく》な児で、今迄健の受持の二年級であつたが、外の教師も生徒等も、校長の子といふのでそれとなく遠慮してゐる。健はそれを、人一倍厳しく叱る。五十分の授業の間を教室の隅に立たして置くなどは珍しくもない事で、三日に一度は、罰として放課後の教室の掃除当番を吩付《いひつ》ける。其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》時は、無精者の母親がよく健の前へ来て、抱いてゐる梅ちやんといふ児に胸を披《はだ》けて大きい乳房を含ませながら、
『千早先生、家《うち》の忠一は今日も何か悪い事しあんしたべすか?』
 などゝ言ふことがある。
『ハ。忠一さんは日増《ひまし》に悪くなる様ですね。今日も権太といふ小供が新らしく買つて来た墨を、自分の机の中に隠して知らない振してゐたんですよ。』
『コラ、彼方《あちら》へ行け。』と、校長は聞きかねて細君を叱る。
『それだつてなす、毎日悪い事許りして千早先生に御迷惑かける様なんだハンテ、よくお聞き申して置いて、後で私《わだし》もよツく吩付《いひつ》けて置くべと思つてす。』
 健は平然《けろり》として卓隣《つくゑどな》りの秋野といふ老教師と話を始める。校長の妻は、まだ何か言ひたげにして、上吊《うはづ》つた眉をピリ/\させながら其処に立つてゐる。然うしてるところへ、掃除が出来たと言つて、掃除監督の生徒が通知《しらせ》に来る。
『黒板も綺麗に拭いたか?』
『ハイ。』
『先生に見られても、少しも小言を言はれる点《ところ》が無い
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