を鳴らした。
繁の気色の較々《やや》動いたのを見たのであらう、お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し気にではない。身体さへ少許《すこし》捩向けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ/\と笑つた。紅をつけ過した為に、日に燃ゆる牡丹の様な口が、顔一杯に拡がるかと許り大きく見える。
自分は此時、全く現実といふ観念を忘れて了つて居た。宛然《さながら》、ヒマラヤ山《さん》あたりの深い深い万仭の谷の底で、巌《いはほ》と共に年を老《と》つた猿共が、千年に一度|演《や》る芝居でも行つて見て居る様な心地。
お夏が顔の崩れる許りニタ/\/\と笑つた時、繁は三度声を出して『ウツ』と唸つた。と見るや否や、矢庭に飛びついてお夏の手を握つた。引張り出した。此時の繁の顔! 笑ふ様でもない、泣くのでもない。自分は辞《ことば》を知らぬ。
お夏は猶ニタ/\と笑い乍ら、繁の手を曳くに任せて居る。二人は側縁《そばえん》の下まで行つて見えなくなつた。社前の広庭へ出たのである。――自分も位置を変へた。広庭の見渡される場所《ところ》へ。
坦たる広庭の中央には、雲を凌《しの》いで立つ一株の大公孫樹が
前へ
次へ
全52ページ中47ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング