らば乃ち、春秋いく度か去来して世紀また新たなるの日、汝が再び昨の運命を繰返して、蔦蘿雑草《てうらざつさう》の底に埋もるるなきを誰か今にして保し得んや。……噫|已《や》んぬる哉。』などとやつてのける種になるのだが、自分は毛頭|恁《こん》な感じは起さなんだ。何故といふまでもない。漸々《やうやう》開園式が済んだ許りの、文明的な、整然《きちん》とした、別に俗気のない、そして依然《やはり》昔と同じ美しい遠景を備へた此新公園が、少からず自分の気に入つたからである。可愛い児供《こども》の生れた時、この児も或は年を老つてから悲惨《みじめ》な死様《しにざま》をしないとも限らないから、いつそ今|斯《か》うスヤ/\と眠つてる間に殺した方が可《いい》かも知れぬ、などと考へるのは、実に天下無類の不所存《ぶしよぞん》と云はねばならぬ。だから自分は、此公園に上つた時、不図次の様な考を起した。これは、人の前で、殊に盛岡人の前では、些《ちと》憚つて然るべき筋の考であるのだが、茲《ここ》は何も本気で云ふのでなくて、唯|序《ついで》に白状するのだから、別段|差閊《さしつかへ》もあるまい。考といふは恁《かう》だ。此公園を公園
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