と舞ひ離れて来たものであらう。
自分は唯|恍《くわう》として之に見入つた。この心地は、かの我を忘れて魂|無何有《むかう》の境に逍遙《さまよ》ふといふ心地ではない。謂はば、東雲の光が骨の中まで沁み込んで、身も心も水の如く透き徹る様な心地だ。
較々《やや》霎時《しばし》して、自分は徐《おもむ》ろに其|一片《ひとひら》の公孫樹の葉を、水の上から摘み上げた。そして、一滴《ひとつ》二滴《ふたつ》の銀《しろがね》の雫を口の中に滴《た》らした。そして、いと丁寧に塵なき井桁の端に載せた。
顔を洗つてから、可成《なるべく》音のせぬ様に水を汲み上げて、盥の水を以前《もと》の如く清く盈々《なみなみ》として置いて、さて彼の一片の小扇をとつて以前の如くそれに浮べた。
恁《かく》して自分は、云ふに云はれぬ或る清浄な満足を、心一杯に感じたのであつた。
起き出でた時よりは余程明るくなつたが、まだ/\日の出るには程がある。家の中でも、隣家《となり》でも、その隣家《となり》でも、誰一人起きたものがない。自分は静かに深呼吸をし乍ら、野菜畑の中を彼方此方《あちこち》と歩いて居た。
だん/\進んで行くと、突当りの木
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