、自分は敢て醜悪と感じなかつた。何故なれば、自分は決して此土地の盛岡であるといふことを忘れなかつたからである、市の中央の大逵《おほどほり》で、然も白昼、穢《きた》ない/\女乞食が土下座して、垢だらけの胸を披《はだ》けて人の見る前に乳房を投げ出して居る! この光景は、大都乃至は凡ての他の大都会に決して無い事、否、有るべからざる事であるが、然し此盛岡には常に有る事、否、之あるがために却つて盛岡の盛岡たる所以を発揮して見せる必要な条件であるのだ。されば自分は、之を見て敢て醜悪を感ぜなんだのみならず、却つて或る一種の興味を覚えた。そして静かに門内に足を入れた。
 校内の案内は能く知つて居る。門から直ぐ左に折れて、ヅカ/\と小使室の入口に進んだ。
『鹿川《かがは》先生は、モウお退出《ひけ》になりましたか?』
 鹿川先生といふは、抑々《そもそも》の創始《はじめ》から此学校と運命を偕《とも》にした、既に七十近い、徳望県下に鳴る老儒者である。されば、今迄此処の講堂に出入した幾千と数の知れぬうら若い求学者の心よりする畏敬の情が、自ら此老先生の一身に聚つて、其痩せて千年の鶴の如き老躯は、宛然《さながら》こ
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