煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず湿々《じめじめ》して居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹《おほいてふ》の、まだ一片《ひとひら》も落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると凹凸《でこぼこ》の劇しい藪路、それを東に一町|許《ばかり》で、天神山に達する。しん/\と生ひ茂つた杉木立に囲まれて、苔蒸せる石甃《いしだたみ》の両側秋草の生ひ乱れた社前数十歩の庭には、ホカ/\と心地よい秋の日影が落ちて居た。遠くで鶏の声の聞えた許り、神寂びた宮居は寂然《ひつそり》として居る。周匝《あたり》にひびく駒下駄の音を石甃に刻み乍ら、拝殿の前近く進んで、自分は図らずも懐かしい旧知己の立つて居るのに気付いた。旧知己とは、社前に相対してぬかづいて居る一双の石の狛《こまいぬ》である。詣づる人又人の手に撫でられて、其不格好な頭は黒く膏光《あぶらびか》りがして居る。そして、其又顔といつたら、蓋《けだ》し是れ天下の珍といふべきであらう、唯極めて無造作に凸凹を造《こしら》へた丈けで醜くもあり、馬鹿気ても居るが、克《よ》く見ると実に親しむべき愛嬌のある顔だ。全く世事を
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