の家として居る場所を、他人に占領された憤怒を洩したのであらう。
 お夏は又何と思つたか、卒《には》かに身を動かして、射《なゝめ》に背《せ》を繁《しげる》に向けた。そして何やら探す樣であつたが、取り出したのは一個の小さい皿――紅皿である、呀《オヤ》と思つて見て居ると、唾《つば》に濡した小指で其紅を融かし始めて二度三度薄からぬ脣へ塗りつけた。そして、チョイと恥かしげに繁の方に振向いて見た。
 繁はビク/\と其身を動かした。
 お夏は再び口紅《くちべに》をつけた。そして再び振向いて恥かしげに繁を見た。
 繁はグッと喉を鳴らした。
 繁の氣色の稍々《やゝ》動いたのを見たのであらう。お夏は慌しく三度口紅をつけた。そして三度振向いた、が、此度は恥し氣にではない。身體さへ少許《すこし》捩向《ねぢむ》けて、そして、そして、繁を仰ぎ乍らニタ/\と笑つた。紅をつけ過した爲に、日に燃ゆる牡丹の樣な口が、顏一杯に擴がるかと許り大きく見える。
 自分は此時、全く現實と云ふ觀念を忘れて了つて居た。宛然《さながら》、ヒマラヤ山あたりの深い深い萬仭の谷の底で、巖《いはほ》と共に年を老《と》つた猿共が、千年に一度|演《
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