も見えなかつた。一月許り前になつて偶然《ひよつくり》歸つて來た。が其時はもう本當の愚女《ばか》になつて居て、主人であつた人に逢ふても、昔の禮さへ云はなんだ。半年有餘の間、何をして來たかは無論誰も知る人は無いが、歸つた當座は二十何圓とかの金を持つて居つたさうナ。多分乞食をして來たのであらう。此盛岡に來たのは、何日《いつ》からだか解らぬが、此頃は毎日|彼樣《あゝ》して人の門に立つ。そして、云ふことが何時でも『お頼《だん》のまうす、腹が減つて、』だ。モウ確然《すつかり》普通の女でなくなつた證據には、アレ浩さんも見たでせう、乞食をして居乍ら、何時でもアノ通り紅《べに》をつけて新らしい下駄を穿いて居ますよ。夜は甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》處に寢るんですかネー。――
 此お夏は今、狹い白狐龕《びやくこがん》の中にペタリと坐つて、ポカンとした顏を入口に向けて居たのだ。餘程早くから目を覺まして居たのであらう。
 中腰になつてお夏を睨めた繁《しげる》は、何と思つたか、犬に襲はれた猫のする樣に、脣を尖らして一聲『フウー』と哮《いが》んだ。多分平生自分
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