そめた。
前にも云つた如く、今自分の前なる古い木槿垣は、稻荷社の境内と此野菜畑との境である。そして此垣の外僅か數尺にして、朽ちて見える社殿の最後の柱が立つて居る。人も知る如く、稻荷社の背面には、高い床下に特別な小龕《せうがん》を造られてある。これは、夜な/\正一位樣の御使なる白狐が來て寢る處とかいふ事で、かの鰯の頭も信心柄の殊勝な連中が、時に豆腐の油揚や干鯡《ほしにしん》、乃至は強飯《こはめし》の類の心籠めた供物を入れ置くところである。今自分は、落葉した木槿垣を透して、此白狐の寢殿を内部まで窺ひ見るべき地位に立つて居たのだ。
然し、自分のひやり[#「ひやり」に傍点]と許り愕いたのは、敢て此處から、牛の樣な白狐が飛び出したといふ譯ではなかつた。
此古い社殿の側縁《そばえん》の下を、一人の異裝した男が、破草履《やれざうり》の音も立てずに、此方《こなた》へ近づいて來る。背のヒョロ高い、三十前後の、薄髯の生えた、痩せこけた頬に些《さ》の血色もない、塵埃《ごみ》だらけの短い袷を著て、穢《よご》れた白足袋を穿いて、色褪せた花染メリンスの女帶を締めて、赤い木綿の截片《きれ》を頸に捲いて……、俯
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