向いて足の爪尖《つまさき》を瞠め乍ら、薄笑ひをして近づいて來る。
 自分は一目見た丈けで、此異裝の男が、盛岡で誰知らぬものなき無邪氣な狂人、高沼繁であると解つた。彼が日々喪狗の如く市中を彷徨《うろつ》いて居る、時として人の家の軒下に一日を立ち暮らし、時として何か索《もと》むるものの如く同じ路を幾度も/\往來して居る男である事は、自分のよく知つて居る處で、又、嘗て彼が不來方城頭《こずかたじやうとう》に跪いて何か呟やき乍ら天の一方を拜んで居た事や、或る夏の日の眞晝時、恰度課業が濟んでゾロ/\と生徒の群り出づる時、中學校の門前に衞兵の如く立つて居て、出て來る人ひとり/\に慇懃な敬禮を施した事や、或る時、美人の名の高かつた、時の縣知事の令夫人が、招魂社の祭禮の日に、二人の令孃と共に參拜に行かれた處が、社前の大廣場、人の群つて居る前で、此男がフイと人蔭から飛び出して行つて、大きい淺黄色の破風呂敷を物をも云はず其盛裝した令夫人に冠せた事などは、皆自分の嘗て親しく目撃したところであつた。彼には父もあり母もある、また家もある。にも不拘、常に此新山堂下の白狐龕《びやくこがん》を無賃の宿として居るといふ事
前へ 次へ
全51ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング