く、靜かに井戸に近《ちかづ》いた自分は、敢て喧ましき吊車の音に、この曉方の神々しい靜寂《しづけさ》を破る必要がなかつた。大きい花崗岩《みかげいし》の臺に載つた洗面盥には、見よ/\、溢れる許り盈々《なみ/\》と、毛程の皺さへ立てぬ秋の水が、玲瓏として銀水の如く盛つてあるではないか。加之《のみならず》、此一面の明鏡は又、黄金の色のいと鮮かな一|片《ひら》の小扇さへ載せて居る。――すべて木の葉の中で、天《あま》が下の王妃の君とも稱《たた》ふべき公孫樹《いてふ》の葉、――新山堂の境内の天聳《あまそゝ》る母樹《はゝぎ》の枝から、星の降る夜の夜心に、ひらり/\と舞ひ離れて來たものであらう。
自分は唯恍として之に見入つた。この心地は、かの我を忘れて、魂《たましひ》無何有《むかう》の境に逍遙《さまよ》ふといふ心地ではない。謂はゞ、東雲の光が骨の中まで沁み込んで、身も心も水の如く透き徹る樣な心地だ。
較々《やゝ》霎時《しばし》して、自分は徐ろに其一片の公孫樹の葉を、水の上から摘み上げた。そして、一滴《ひとつ》二滴《ふたつ》の銀《しろがね》の雫を口の中に滴らした。そして、いと丁寧に塵なき井桁の端《はし
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