》が聲もなく動いて居る。前夜お苑さんが、物語に氣を取られて雨戸を閉めるのを忘れたのだ。まだ/\、早いな、と思つたが、大望を抱いてる身の、宛然《さながら》初陣の曉と云つたやうな心地は、目がさめてから猶温かい臥床《ふしど》を離れぬのを、何か安逸を貪る所業の樣に感じさせた。自分は、人の眠を妨げぬやうに靜かに起きて、柱に懸けてあつた手拭を取つて、サテ音させぬ樣に障子を明けた。秋の朝風の冷たさが、颯《さつ》と心地よく全身に沁み渡る。庭へ下りた。
井戸ある屋後へ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]ると、此處は半反歩許りの野菜畑で、霜枯れて地に伏した里芋の廣葉や、紫の色褪せて莖許りの茄子の、痩せた骸骨《むくろ》を並べてゐる畝や、拔き殘された大根の剛《こは》ばつた葉の上に、東雲《しののめ》の光が白々と宿つて居た。否《いな》これは、東雲の光だけではない、置き餘る露の珠《たま》が東雲の光と冷かな接吻《くちづけ》をして居たのだ。此野菜畑の突當りが、一重《ひとへ》の木槿垣《むくげがき》によつて、新山堂の正一位樣と背中合せになつて居る。滿天滿地、闃《げき》として脈搏つ程の響もない。
顏を洗ふべ
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