の擔いで居る男に蹴倒されたのだ。この非常なる活劇は、無論眞の一轉瞬の間に演ぜられた。
噫、噫、この『お夏』といふ名も亦、決して初對面の名ではなかつた。矢張自分の記憶の底に沈んで居る石塊の一つの名であつた。そして此名も、たしか或る狂女の名であつた樣だ。
以上二つの舊知の名が、端《はし》なく我|頭腦《あたま》の中でカチリと相觸れた時、其一刹那、或る莊嚴な、金色燦然たる一光景が、電光の如く湧いて自分の兩眼に立ち塞がつた。
自分は今、茲に霎時《しばらく》、五年前の昔に立返らねばならぬ。時は神無月末の或る朝まだき、處は矢張此の新山祠畔の伯母が家。
史學研究の大望を起して、上京を思立つた自分は、父母の家を辭した日の夕方、この伯母が家に著いて、晩《く》れ行く秋の三日四日、あかぬ別れを第二の故郷と偕《とも》に惜まれたのであつた。
一夜《ひとよ》、伯母やお苑《その》さんと隨分夜更くるまで語り合つて、枕に就いたのは、遠近《をちこち》に一番鷄の聲を聞く頃であつたが、翌くる朝は怎《ど》うしたものか、例になく早く目が覺めた。枕頭《まくらもと》の障子には、わづかに水を撒《ま》いた許りの薄光《うすひかり
前へ
次へ
全51ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング