《げんとう》』である。自分はまだ、一分も、一厘も、此大問題の解決に歩を進めて居らぬのだ。或は今夜此筆を擱く迄には、何等か解決の端《はし》を發見するに到るかも知れぬが、……否々《いや/\》、それは望むべからざる事だ。此新たに掘り出された『ローゼッタ石』の、表に刻まれた神聖文字《ハイエログリフ》は、如何にトマス・ヨングでもシャムポリヲンでも、プシウスでも、とても十年二十年に讀み了る事が出來ぬ樣に思はれる。
自分が今朝《けさ》新山祠畔の伯母の家を出たのは、大方八時半頃でがなあつたらう。昨日の雨の名殘りの水潦《みづたまり》が路の處々に行く人の姿々を映して居るが、空は手掌《てのひら》程の雲もなく美しく晴れ渡つて、透明な空氣を岩山の上の秋陽《あきび》がホカ/\と温めて居た。
加賀野新小路の親縁《みより》の家では、市役所の衞生係なる伯父が出勤の後で、痩せこけた伯母の出して呉れた麥煎餅は、昨日の雨の香を留めたのであらう、少なからず濕々《じめ/\》して居た。此家から程近い住吉神社へ行つては、昔を語る事多き大公孫樹の、まだ一片《ひとひら》も落葉せぬ枝々を、幾度となく仰ぎ見た。此樹の下から左に折れると
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