頃、暴風の樣な勢で以て、天理教が附近一帶の村々に入り込んで來た。
 或晩、氣弱者のお安が平生《いつ》になく眞劒になつて、天理教の有難い事を父作松に説いたことを、松太郎は今でも記憶してゐる。新しいと名の附くものは何でも嫌ひな舊弊家の、剩《おまけ》に名高い吝嗇家《しみつたれ》だつた作松は、仲々それに應じなかつたが、一月許り經つと、打つて變つた熱心な信者になつて、朝夕佛壇の前で誦《あ》げた修證義が、「あしきを攘《はら》うて救けたまへ。」の御神樂歌と代り、大和の國の總本部に参詣して來てからは、自ら思立つてか、唆かされてか、家屋敷所有地全體賣拂つて、工事總額二千九百何十圓といふ、巍然たる大會堂を、村の中央の小高い丘陵の上に建てた。神道天理教會××支部といふのがそれで。
 その爲に、松太郎は兩親と共に着のみ着の儘になつて、其會堂の中に布教師と共に住む事になつた。(役場の方は四ヶ月許りで罷めて了つた。)最初、朝晩の禮拜に皆と一緒になつて御神樂を踊らねばならなかつたのには、少からず弱つたもので、氣羞しくて厭だと言つては甚※[#「麻かんむり/「公」の「八」の右を取る」、第4水準2−94−57]《どんな》
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