要《い》るものかよ。』
『何さ、ただ、お由嬶に一寸用があるだで。』と、聲を低めて對手を宥める樣に言ふ。
『フム。』と言つた限《きり》で荷馬車は行き過ぎた。
 お申婆《さるばばあ》は、軈て物靜かに戸を開けて、お由の家に姿を隱して了つた。障子の影法師はまだ踊つてゐる。歌もまだ聞えてゐる。
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『よろづよの、せかい一れつみはらせど、むねのはかりたものはない。
『そのはずや、といてきかしたものはない。しらぬが無理ではないわいな。
『このたびは、神がおもてへあらはれて、なにか委細をとききかす。』
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 横川松太郎は、同じ縣下でも遙《ずつ》と南の方の、田の多い、養蠶の盛んな、或村に生れた。生家《うち》はその村でも五本の指に數へられる田地持で、父作松と母お安の間の一粒種、甘やかされて育つた故か、體も脾弱《ひよわ》く、氣も因循《ぐづ》で學校に入つても、勵むでもなく、怠《なまけ》るでもなく、十五の春になつて高等科を卒へたが、別段自ら進んで上の學校に行かうともしなかつた。それなりに十八の歳になつて、村の役場に見習の格で雇書記に入つたが、丁度その
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