言つて、御供水を貰ひに來た。三四日經つと、麥煎餅を買つて御禮に來た。後で聞けばそれは赤痢だつたといふ。
 二百十日が來ると、馬のある家では、泊り懸けで馬糧の萩を刈りに山へ行く。其若者が一人、山で病附いて來て醫者にかゝると、赤痢だと言ふので、隔離病舍に收容された。さらでだに、岩手縣の山中に數ある痩村の中でも、珍しい程の貧乏村、今年は作が思はしくないと弱つてゐた所へ、この出來事は村中の顏を曇らせた。又一人、又一人、遂に忌はしき疫が全村に蔓延した。恐しい不安は、常でさへ巫女《いたこ》を信じ狐を信ずる住民の迷信を煽り立てた。御供水は酒屋の酒の樣に需要が多くなつた。一月餘の間に、新しい信者が十一軒も増えた。松太郎は世の中が面白くなつて來た。
 が、漸々《だん/\》病勢が猖獗になるに從《つ》れて、渠自身も餘り丈夫な體ではなし、流石に不安を感ぜぬ譯に行かなくなつた。其時思ひ出したのは、五六年前――或は渠が生れ村の役場に出てゐた頃かも知れぬ――或新聞で香竄葡萄酒の廣告の中に、傳染病豫防の效能があると書いてあつたのを讀んだ事だ。渠は恁ういふ事を云ひ出した。『天理樣は葡萄がお好きぢや。お好きな物を上げてお
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