先生樣ア!』
と、若々しい娘の聲が、突然、調戯《からか》ふ樣な調子で耳近く聞えた。松太郎は礑と足を留めて、キョロ/\周圍を見廻した。誰も見えない。粟の穗がフイと飛んで來て、胸に當つた。
『誰だい?』
と、渠は少し氣味の惡い樣に呼んで見た。カサとの音もせぬ。
『誰だい?』
二度呼んでも答が無いので、苦笑ひをして歩き出さうとすると、
『ホホヽヽ。』
と澄んだ笑聲がして、白手拭を被つた小娘の顏が、二三間隔つた粟の上に現れた。
『何だ、お常ツ子かい!』
『ホホヽヽ。』と又笑つて、『先生樣ア、お前樣、狐踊踊るづア、今夜《こんにや》俺《おら》と一緒に踊らねえすか? 今夜《こんにや》から盆だす。』
『フフヽヽ。』と松太郎は笑つた。そして急しく周圍を見廻した。
『なツす、先生樣ア。』とお常は飽迄曇りのないクリクリした眼で調戯《からか》つてゐる。十五六の、色の黒い、晴れやかな邪氣無《あどけな》い小娘で、近所の駄菓子屋の二番目だ。松太郎の通る度、店先にゐさへすれば、屹度この眼で調戯ふ。落花生の殼を投げることもある。
渠は不圖、別な、全く別な、或る新しい生き甲斐のある世界を、お常のクリ/\した眼の中に發
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