母を離れ、恋人に袂別《べいべつ》して、血と剣の戦野に奮進しぬ。陣中の生活僅かに十六旬、不幸にして虹の如き二十有三歳を一期《いちご》に、葉月二十六日曙近きガデブツシユの戦に敵弾を受けて瞑したりと雖《いへ》ども、彼の胸中に覚醒したる理想と其健闘の精神とは、今に生ける血となりて独逸《ドイツ》民族の脈管に流れ居候。誰か彼を以て激情のために非運の最期を遂げたる一薄倖児《いちはくかうじ》と云ふ者あらむや。ゲーテ、シルレル、フユヒテ、モムゼン、ワグネル、ビスマルク等を独逸民族の根と葉なりとせば、キヨルネルは疑ひもなく彼等の精根に咲き出でたる、不滅の花に候。鉄騎十万ラインを圧して南下したるの日、理想と光栄の路に国民を導きたる者は、普帝が朱綬《しゆじゆ》の采配《さいはい》に非ずして、実にその身は一兵卒たるに過ぎざりし不滅の花の、無限の力と生命なりしに候はずや。剣光満洲の空に閃めくの今、吾人が彼を懐ふ事しかく切なる者、又故なきに非ず候。
 日露|干戈《かんくわ》を交へて将《まさ》に三|閲《えつ》月、世上愛国の呼声は今|殆《ほと》んど其最高潮に達したるべく見え候。吾人は彼等の赤誠に同ずるに於て些《いささか》の考慮をも要せざる可く候。然《しか》れども強盛なる生存の意義の自覚に基かざる感激は、遂に火酒一酔の行動以上に出で難き事と存候。既に神聖なる軍国の議会に、露探《ろたん》問題を上したるの恥辱を有す。同胞は、宜《よろ》しく物質の魔力に溺れむとする内心の状態を省みる可く候。省みて若《も》し、漸く麻痺せむとする日本精神を以て新たなる理想の栄光裡に復活せしめむとする者あらば、先づ正に我がキヨルネルに学ばざる可《べ》からず候はざるか。愛国の至情は人間の美はしき本然性情なり。個人絶対主義の大ニイチエも、普仏戦争に際しては奮激禁ぜず、栄誉あるバアゼルの大学講座を捨てゝ普軍のために一看護卒たるを辞せざりき、あゝ今の時に於て、彼を解する者に非ざれば、又吾人の真情を解せざる可く候。身を軍籍に措《お》かざれば祖国のために尽すの路なきが如き、利子付きにて戻る国債応募額の多寡《たくわ》によつて愛国心の程度が計らるゝ世の中に候。嗟嘆《ああ》、頓首。

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 四月二十八日午前九時
 今日は空前の早起致し候ため、実は雨でも降るかと心配仕り候処、春光嬉々として空に一点の雲翳《うんえい》
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