渋民村より
石川啄木
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)杜陵《とりやう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)満城|桜雲《あううん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+慈」、39−上−12]
−−
[#5字下げ]一[#「一」は中見出し]
杜陵《とりやう》を北へ僅かに五里のこの里、人は一日の間に往復致し候へど、春の歩みは年々一週が程を要し候。御地は早や南の枝に大和心《やまとごころ》綻《ほこ》ろび初め候ふの由、満城|桜雲《あううん》の日も近かるべくと羨やみ上げ候。こゝは梅桜《ばいあう》の蕾|未《いま》だ我瞳よりも小さく候へど、さすがに春風の小車《をぐるま》道を忘れず廻り来て、春告鳥《うぐひす》、雲雀《ひばり》などの讃歌、野に山に流れ、微風にうるほふ小菫の紫も路の辺に萌え出で候。今宵は芝蘭《しらん》の鉢の香りゆかしき窓、茶煙一室を罩《こ》め、沸る湯の音|暢《のび》やかに、門田の蛙さへ歌声《かせい》を添へて、日頃無興にけをされたる胸も物となく安らぎ候まゝ、思ひ寄りたる二つ三つ、※[#「虫+慈」、39−上−12]々《じじ》たる燈火の影に覚束《おぼつか》なき筆の歩みに認め上げ候。
近事戦局の事、一言にして之を云へば、吾等国民の大慶この上の事や候ふべき。臥薪《ぐわしん》十年の後、甚《はなは》だ高価なる同胞の資財と生血とを投じて贏《か》ち得たる光栄の戦信に接しては、誰か満腔の誠意を以て歓呼の声を揚げざらむ。吾人如何に寂寥の児たりと雖《いへ》ども、亦《また》野翁|酒樽《しゆそん》の歌に和して、愛国の赤子たるに躊躇する者に無御座候《ござなくさうらふ》。
戦勝の光栄は今や燎然《れうぜん》たる事実として同胞の眼前に巨虹の如く横はれり。此際に於て、因循姑息《いんじゆんこそく》の術中に民衆を愚弄したる過去の罪過を以て当局に責むるが如きは、吾人の遂に忍びざる所、たゞ如何にして勝ちたる後の甲《かぶと》の緒を締めむとするかの覚悟に至りては、心ある者|宜《よろ》しく挺身《ていしん》肉迫して叱咤《しつた》督励《とくれい》する所なかるべからず候。近者《ちかくは》北米オークランド湖畔の一友遙かに書を寄せて曰く、飛電|頻々《ひんぴん》とし
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング