つた。
『この逵《とほり》は僕等がアカシヤ街と呼ぶのだ。彼処《あそこ》に大きい煉瓦造りが見える。あれは五号館といふのだ。……奈何《どう》だ、気に入らないかね?』
『好い! 何時《いつ》までも住んでゐたい――』
実際私は然う思つた。
立見君の宿は北七条の西○丁目かにあつた。古い洋風擬ひの建物の、素人下宿を営んでゐる林といふ寡婦《やもめ》の家に室借《へやが》りをしてゐた。立見君は其《その》室《へや》を「猫箱」と呼んでゐた。台所の後の、以前《もと》は物置だつたらしい四畳半で、屋根の傾斜なりに斜めに張られた天井は黒く、隅の方は頭が閊《つか》へて立てなかつた。其狭い室の中に机もあれば、夜具もある、行李もある。林務課の事業手といふ安腰弁の立見君は、細君と女児《こども》と三人で其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》室《へや》にゐ乍ら、時々藤村調の新体詩などを作つてゐた。机の上には英吉利人の古い詩集が二三冊、旧新約全書、それから、今は忘れて読めなくなつたと言ふ独逸文の宗教史――これらは皆、何かしら立見君の一生に忘れ難い紀念があるのだらう――などが
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