小便《おしつこ》しては可けませんから。』と妻が言つても、
『否《いいえ》、構ひませんから、も少し借して下さい。』と言つて却々《なかなか》放さない。母親は笑つてゐた。
 二人限になつた時、妻は何かの序《ついで》に恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》事を言つた。
『真佐子さんは少し藪睨みですね。穏《おとな》しい方でせう。』
 軈て出社の時刻になつた。玄関を出ると、其処からは見えない生垣の内側に、私の子を抱いた真佐子が立つてゐた。私を見ると、
『あれ、父様ですよ、父様ですよ。』と言つて子供に教へる。
『重くありませんか、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》に抱いてゐて?』
『否《いいえ》、嬢ちやん、サア、お土産《みや》を買つて来て下さいツて。マア何とも仰しやらない!』
と言ひながら、耐らないと言つた態《ふう》に頬擦りをする。赤児を可愛がる処女には男の心を擽る様な点《ところ》がある。私は二三歩真佐子に近づいたが、気がつくと玄関にはまだ妻が立つてるので、其儘門外へ出て了つた。
 帰つて来た時は、小樽へ帰る私の妻を停車場まで見送りに行つた真佐子も、今し方帰つた許りといふところであつた。その晩は、立見君は牧師の家に出かけて行つたので、私は室にゐて手紙などを書いた。茶の間からは女達の話声が聞える。真佐子は私の子供の可愛かつた事を頻りに数へ立てゝゐる、立見君の細君もそれに同じてはゐたが、何となく気の乗らぬ声であつた。


 翌日は社に出てから初めての日曜日、休みではないが、明くる朝の新聞は四頁なので四時少し前に締切になつた。後藤君はその日欠勤した。帰つて来て寝ころんでゐると、後藤君が相変らずの要領を得ない顔をして入つて来て、
『少し相談があるから、今夜七時半に僕の下宿へ来給へ。僕は他《よそ》を廻つてそれ迄に帰つてるから。』
と言つて出て行つた。直ぐ戻つて来て私を玄関に呼出すから、何かと思ふと、
『君、秘密な話だから、一人で来てくれ給へ。』
『好し。一体何だね? 何か事件が起つたのかね?』
『君、声が高いよ。大に起つた事があるさ。吾党の大事だ。』と、黄色い歯を出しかけたが、直ぐムニヤ/\と口を動かして、『兎に角来給へ。成るべく僕の処へ来るのを誰にも知らせない方が好いな。』
 そして、右の肩を揚げ、薄い下駄を引擦る様にして出て行つて了つた。「よく秘密にしたがる男だ!」と私は思つた。
 私はその晩の事が忘られない。
 夕飯が済むと、立見君と目形君は教会に行くと言つて、私にも同行を勧めた。私は社長の宅へ行く用があると言つて断つた。そして約束の時間に後藤君の下宿へ行つた。
 座にはS――新聞の二面記者だといふ男がゐた。後藤君は私を其男に紹介《ひきあは》せた。私は、その男が所謂「秘密の相談」に関係があるのか、無いのか、一寸判断に困つた。片目の小さい、始終《しよつちゆう》唇を甜《な》め廻す癖のある、鼻の先に新聞記者がブラ下つてる様な挙動《やうす》や物言ひをする、可厭《いや》な男であつた。
 少し経つと、後藤君は私に、
『君は既《も》う先に行つたのかと思つてゐた。よく誘つて呉れたね。』
 これで了解《のみこ》めたから、私も可《いい》加減にバツを合せた。そして、
『まだ七時頃だらうね?』
『奈何《どう》して、奈何して、既《も》う君八時ぢやないか知ら。』
『待ち給へ。』とS――新聞の記者が言つて、帯の間の時計を出して見た。『七時四十分。何処かへ行くのかね?』
『あゝ、七時半までの約束だつたが――』
『然うか。それでは僕の長居が邪魔な訳だね。近頃は方々で邪魔にしやがる。処で行先は何処だ?』
『ハハヽヽ。然う一々|他《ひと》の行先に干渉しなくても可いぢやないか。』
『秘《かく》すな! 何有《なあに》、解つてるよ、確乎《ちやん》と解つてるよ。高が君等の行動が解らん様では、これで君、札幌はいくら狭くつても新聞記者の招牌《かんばん》は出されないからね。』
『凄じいね。ところで今夜はマアそれにして置くから、お慈悲を以てこれで御免を蒙らして頂かうぢやないか?』
『好し、好し。今帰つてやるよ。僕だつて然う没分暁漢《わからずや》ではないからね、先刻御承知の通り。処でと――』と、腕組をして凝乎《じつ》と考へ込む態《ふう》をする。
『何を考へるのだ、大先生?』
『マ、マ、一寸待つてくれ。』
『金なら持つてないぜ。』
『畜生奴! ハハヽヽ、先を越しやがつた。何有《なあに》、好し、好し、まだ二三軒心当りがある。』
『それは結構だ。』
『冷評《ひやか》すない。これでも△△さんでなくては夜も日も明けないツて人が待つてるんだからね。然うだ、金崎の処へ行つて三両許り踏手繰《ふんだくつ》てやる
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