札幌
石川啄木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)土地《ところ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)洋風|擬《まが》ひ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 半生を放浪の間に送つて来た私には、折にふれてしみ/″\思出される土地《ところ》の多い中に、札幌の二週間ほど、慌しい様な懐しい記憶を私の心に残した土地《ところ》は無い。あの大きい田舎町めいた、道幅の広い、物静かな、木立の多い、洋風|擬《まが》ひの家屋《うち》の離れ/″\に列んだ――そして甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》大きい建物も見涯《みはて》のつかぬ大空に圧しつけられてゐる様な、石狩平原の中央《ただなか》の都の光景《ありさま》は、やゝもすると私の目に浮んで来て、優しい伯母かなんぞの様に心を牽引《ひきつ》ける。一年なり、二年なり、何時かは行つて住んで見たい様に思ふ。
 私が初めて札幌に行つたのは明治四十年の秋風の立初《たちそ》めた頃である。――それまで私は函館に足を留《と》めてゐたのだが、人も知つてゐるその年八月二十五日の晩の大火に会つて、幸ひ類焼は免れたが、出てゐた新聞社が丸焼になつて、急には立ちさうにもない。何しろ、北海道へ渡つて漸々《やうやう》四ヶ月、内地(と彼地《あちら》ではいふ。)から家族を呼寄せて家《うち》を持つた許りの事で、土地《ところ》に深い親みは無し、私も困つて了つた。其処へ道庁に勤めてゐる友人の立見君が公用|旁々《かたがた》見舞に来て呉れたので、早速履歴書を書いて頼んで遣り、二三度手紙や電報の往復があつて、私は札幌の××新聞に行く事に決つた。条件は余り宜《よ》くなかつたが、此際だから腰掛の積りで入つたがよからうと友人からも言つて来た。
 私は少し許りの畳建具を他《ひと》に譲る事にして旅費を調へた。その時は、函館を発つ汽車汽船が便毎に「焼出され」の人々を満載してゐた頃で、其等の者が続々入込んだ為に、札幌にも小樽にも既《も》う一軒の貸家も無いといふ噂もあり、且は又、先方《むかう》へ行つて直ぐ家《うち》を持つだけの余裕も無しするから、家族は私の後から一先づ小樽にゐた姉の許《もと》へ引上げる事にした。
 九月十何日かであつた。降り続いた火事後の雨が霽《あが》ると、伝染病発生の噂と共に底冷《そこびえ》のする秋風が立つて、家を失ひ、職を失つた何万の人は、言ひ難き物の哀れを一様に味つてゐた。市街の大半を占めてゐる焼跡には、仮屋《かりや》建ての鑿《のみ》の音が急がしく響き合つて、まだ何処となく物の燻《くすぶ》る臭気《にほひ》の残つてゐる空気に新らしい木の香が流れてゐた。数少い友人に送られて、私は一人夜汽車に乗つた。
 翌暁《あくるあさ》小樽に着く迄は、腰下す席もない混雑で、私は一夜《ひとばん》車室の隅に立ち明した。小樽で下車して、姉の家で朝飯を喫《したた》め、三時間許りも仮寝《うたたね》をしてからまた車中の人となつた。車輪を洗ふ許りに涵々《ひたひた》と波の寄せてゐる神威古潭《かむゐこたん》の海岸を過ぎると、銭函駅に着く。汽車はそれから真直《ましぐら》に石狩の平原に進んだ。
 未見《みち》の境を旅するといふ感じは、犇々《ひしひし》と私の胸に迫つて来た。空は低く曇つてゐた。目を遮ぎる物もない曠野の処々には人家の屋根が見える。名も知らぬ灌木《くわんぼく》の叢生した箇処《ところ》がある。沼地がある――其処には蘆荻の風に騒ぐ状《さま》が見られた。不図、二町とは離れぬ小溝の縁の畔路《あぜみち》を、赤毛の犬を伴《つ》れた男が行く。犬が不意に駆け出した。男は膝まづいた。その前に白い煙がパツと立つた――猟夫だ。蘆荻の中から鴫らしい鳥が二羽、横さまに飛んで行くのが見えた。其向ふには、灌木の林の前に茫然《ぼんやり》と立つて、汽車を眺めてゐる農夫があつた。
 恁《か》くして北海道の奥深く入つて行くのだ。恁くして、或者は自然と、或者は人間同志で、内地の人の知らぬ劇《はげ》しい戦ひを戦つてゐる北海道の生活の、だん/\底へと入つて行くのだ――といふ感じが、その時私の心に湧いた。――その時はまだ私の心も単純であつた。既にその劇しい戦ひの中へ割込み、底から底と潜り抜けて、遂々《たうたう》敗けて帰つて来た私の今の心に較べると、実際その時の私は、単純であつた――
 小雨が音なく降り出した来た。気
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