が付くと、同車の人々は手廻りの物などを片付けてゐる。小娘に帯を締直して遣つてゐる母親もあつた。既《も》う札幌に着くのかと思つて、時計を見ると一時を五分過ぎてゐた。窓から顔を出すと、行手に方《あた》つて蓊乎《こんもり》とした木立が見え、大きい白ペンキ塗の建物も見えた。間もなく其建物の前を過ぎて、汽車は札幌駅に着いた。
 乗客の大半は此処で降りた。私も小形の鞄一つを下げて乗降庭《プラツトフオオム》に立つと、二歳になる女の児を抱いた、背の高い立見君の姿が直ぐ目についた。も一人の友人も迎へに来て呉れた。
『君の家は近いね?』
『近い。どうして知つてるね?』
『子供を抱いて来てるぢやないか。』
 改札口から広場に出ると、私は一寸立停つて見たい様に思つた。道幅の莫迦に広い停車場通りの、両側のアカシヤの街※[#「木+越」、第3水準1−86−11]《なみき》は、蕭条《せうでう》たる秋の雨に遠く/\煙つてゐる。其下を往来《ゆきき》する人の歩みは皆静かだ。男も女もしめやかな恋を抱いて歩いてる様に見える。蛇目の傘をさした若い女の紫の袴が、その周匝《あたり》の風物としつくり調和してゐた。傘をさす程の雨でもなかつた。
『この逵《とほり》は僕等がアカシヤ街と呼ぶのだ。彼処《あそこ》に大きい煉瓦造りが見える。あれは五号館といふのだ。……奈何《どう》だ、気に入らないかね?』
『好い! 何時《いつ》までも住んでゐたい――』
 実際私は然う思つた。
 立見君の宿は北七条の西○丁目かにあつた。古い洋風擬ひの建物の、素人下宿を営んでゐる林といふ寡婦《やもめ》の家に室借《へやが》りをしてゐた。立見君は其《その》室《へや》を「猫箱」と呼んでゐた。台所の後の、以前《もと》は物置だつたらしい四畳半で、屋根の傾斜なりに斜めに張られた天井は黒く、隅の方は頭が閊《つか》へて立てなかつた。其狭い室の中に机もあれば、夜具もある、行李もある。林務課の事業手といふ安腰弁の立見君は、細君と女児《こども》と三人で其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》室《へや》にゐ乍ら、時々藤村調の新体詩などを作つてゐた。机の上には英吉利人の古い詩集が二三冊、旧新約全書、それから、今は忘れて読めなくなつたと言ふ独逸文の宗教史――これらは皆、何かしら立見君の一生に忘れ難い紀念があるのだらう――などが載つてゐた。
 私もその家に下宿する事になつた。尤も明間《あきま》は無かつたから、停車場に迎へに来て呉れたも一人の方の友人――目形君――と同室する事にしたのだ。


 宿の内儀《かみさん》は既《も》う四十位の、亡夫は道庁で可也《かなり》な役を勤めた人といふだけに、品のある、気の確乎《しつかり》した、言葉に西国の訛りのある人であつた。娘が二人、妹の方はまだ十三で、背のヒヨロ高い、愛嬌のない寂しい顔をしてゐる癖に、思ふ事は何でも言ふといつた様な淡白《きさく》な質《たち》で、時々間違つた事を喋つては衆《みんな》に笑はれて、ケロリとしてゐる児であつた。
 姉は真佐子と言つた。その年の春、さる外国人の建てゝゐる女学校を卒業したとかで、体はまだ充分発育してゐない様に見えた。妹とは肖《に》ても肖つかぬ丸顔の、色の白い、何処と言つて美しい点《ところ》はないが、少し藪睨みの気味なのと片笑靨《かたゑくぼ》のあるのとに人好きのする表情があつた。女学校出とは思はれぬ様な温雅《しとや》かな娘で、絶え/″\な声を出して讃美歌を歌つてゐる事などがあつた。学校では大分宗教的な教育を享けたらしい。母親は、妹の方をば時々お転婆だ/\と言つてゐたが、姉には一言も小言を言はなかつた。
 その外に遠い親戚だという眇目《めつかち》な男がゐた。警察の小使をした事があるとかで、夜分などは「現行警察法」といふ古い本を繙いてゐる事があつた。その男が内儀《かみさん》の片腕になつて家事万端立働いてゐて、娘の真佐子はチヨイ/\手伝ふ位に過ぎなかつた。何でも母親の心にしては、末の手頼《たより》にしてゐる娘を下宿屋の娘らしくは育てたくなかつたのであらう。素人屋《しろうとや》によくある例で、我々も食事の時は一同茶の間に出て、食卓を囲んで食ふことになつてゐたが、内儀はその時も成るべく娘には用をさせなかつた。
 或朝、私が何か捜す物があつて鞄の中を調べてゐると、まだ使はない絵葉書が一枚出た。青草の中に罌粟《けし》らしい花の沢山咲き乱れてゐる、油絵まがひの絵であつた。不図、其処へ妹娘の民子が入つて来て、
『マア、綺麗な……』
と言つて覗《のぞ》き込む、
『上げませうか?』
『可《よ》くつて?』
 手にとつて嬉しさうにして見てゐたが、
『これ、何の花?』
『罌粟《けし》。』
『恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4
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