か。――奈何《どう》だい、出懸けるなら一緒に出懸けないか?』
『何有《なあに》、悪い処へは行かないから、安心して先に出て呉れ給へ。』
『莫迦に僕を邪魔にする! が、マア免して置け。その代り儲かつたら割前を寄越さんと承知せんぞ。左様なら。』
 そして室を出しなに後を向いて、
『君等ア薄野《すすきの》(遊廓)に行くんぢやないのか?』と狐疑深《うたぐりぶか》い目付をした。
 その男を送出して室に帰ると、後藤君は落胆《がつかり》した様な顔をして、眉間に深い皺を寄せてゐた。
『遂々《たうたう》追出してやつた、ハハヽヽ。』と笑ひ乍ら坐つたが、張合の抜けた様な笑声であつた。そして、
『あれで君、彼奴《あいつ》はS――社中では敏腕家なんだ。』
『可厭《いや》な奴だねえ。』
『君は案外人嫌ひをする様だね。あれでも根は好人物《おひとよし》で、訛《だま》せるところがある。』
『但し君は人を訛すことの出来ない人だ。』
『然うか……も知れないな。』と言つて、グタリと頤を襟に埋めた。そして、手で頸筋を撫でながら、
『近頃此処が痛くて困る。少し長い物を書いたり、今の様な奴と話をしたりすると、屹度痛くなつて来る。』
『神経痛ぢやないか知ら。』
『然うだらうと思ふ。神経衰弱に罹つてから既《も》う三年許りになるから喃《なあ》。』
『医者には?』
『かゝらない、外の病気と違つて薬なんかマア利かないからね。』
『でも君、構はずに置くよりア可かないか知ら。』
『第一、医者にかゝるなんて、僕にア其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》暇は無い。』
 然う言つて首を擡《もた》げたが、
『暇が無いんぢやアない、実は金が無いんだ。ハハヽヽ。有るものは借金と不平ばかり。然うだ、頸の痛いのも近頃は借金で首が廻らなくなつたからかも知れない。』
 後藤君は取つてつけた様に寂しい高笑ひをした。そして、冷え切つた茶碗を口元まで持つて行つたが、不図気が付いた様に、それを机の上に置いて、
『ヤア失敬、失敬。君にはまだ茶を出さなかつた。』
『茶なんか奈何《どう》でも可いが、それより君、話ツてな何です?』
『マア、マア、男は其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]に急ぐもんぢやない。まだ八時前だもの。』
 然う言つて、薬罐の蓋をとつて見ると、湯はある。出からしになつた急須の茶滓を茶碗の一つに空けて、机の下から小さい葉鉄《ブリキ》の茶壺を取出したが、その手付がいかにも懶《ものぐ》さ相《さう》で、私の様な気の早い者が見ると、もどかしくなる位|緩々《のろのろ》してゐる。
 ギシ/\する茶壺の蓋を取つて、中蓋の取手に手を掛けると、其儘後藤君は凝乎《じつ》と考へ込んで了つた。左の眉の根がピクリ、ピクリと神経的に痙攣《ひきつ》けてゐる。
 やゝあつてから、
『君、』と言つて中蓋を取つたが、その儘茶壺を机の端に載せて、
『僕等も出掛けようぢやないか? 少し寒いけれど。』
『何処へ?』
『何処へでも可い。歩きながら話すんだ。此室《ここ》には、(と声を落して、目で壁隣りの室を指し乍ら、)君、S――新聞の主筆の従弟といふ奴が居るんだ。恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]処で一時間も二時間も密談してると人にも怪まれるし、第一|此方《こつち》も気が塞《つま》る。歩き乍らの方が可い。』
『何をしてるね、隣の奴は?』
『其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《そんな》声で言ふと聞えるよ。何有《なあに》、道庁の学務課へ出てゐる小役人だがね。昔から壁に耳ありで、其※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》処から計画が破れるか知れないから喃《なあ》。』
『一体マア何の話だらう? 大層勿体をつけるぢやないか? 蓋許り沢山あつて、中には甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]美味い饅頭が入つてるんか、一向アテが付かない。』
『ハハヽヽ。マア出懸けようぢやないか?』
 で、二人は戸外に出た。後藤君は既《も》う蓋を取つた茶壺の事は忘れて了つた様であつた。私は、この煮え切らぬ顔をした三十男が、物事を恁うまで秘密にする心根に触れて、そして、見悄《みすぼ》らしい鳥打帽を冠り、右の肩を揚げてズシリ/\と先に立つて階段を降りる姿を見下し乍ら、異様な寒さを感じた。出かけない主義が、何も為出かさぬ間《うち》に活力を消耗して了つた立見君の半生を語る如く、後藤君の常に計画し常に秘密にしてゐるのが、矢張またその半生の戦ひの勝敗を語つてゐた。
 札幌の秋の夜はしめやかであつた。其辺《そこら》は既《も》
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