なる手の指環《ゆびわ》を忘るること能《あた》はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心《しん》を截《き》るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは実にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女《ぢよ》は初めよりわが味方なりき。


  墓碑銘

われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶《なほ》尊敬す――
かの郊外の墓地の栗《くり》の木の下に
かれを葬《はうむ》りて、すでにふた月を経たれど。

実《げ》に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能《あた》はず、
されど、我には何時《いつ》にても起《た》つことを得る準備あり。」

「彼の眼は常に論者の怯懦《けふだ》を叱責《しつせき》す。」
同志の一人はかくかれを評しき。
然《しか》り、われもまた度度《たびたび》しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれ
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