の上に、
あやまちて零《こぼ》したる葡萄酒《ぶだうしゆ》の
なかなかに浸《し》みてゆかぬかなしみ。

われはこの国の女を好まず。


  激論

われはかの夜の激論を忘るること能《あた》はず、
新らしき社会に於《お》ける「権力」の処置に就《つ》きて、
はしなくも、同志の一人なる若き経済学者Nと
我との間に惹《ひ》き起されたる激論を、
かの五時間に亙《わた》れる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家《せんどうか》の言なり。」
かれは遂《つひ》にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆《ほ》ゆるごとくなりき。
若《も》しその間に卓子《テエブル》のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭《かうべ》を撃ちたるならむ。
われはその浅黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲《みなぎ》れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
或《あ》る一人の立ちて窓を明けたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭《らふそく》の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬《ほほ》に、
雨をふくめる夜風の爽《さはや》かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの会合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやか
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