少の所有地《もちち》のあつたのを幸ひ、此村に土着する事に決めたのださうな。私の母は高田家の総領娘であつた。
尤も、高田家の方が私の家よりも、少し格式が高かつたさうである。寝物語に色々な事を聞かされたものだが、時代が違ふので、私にはよく理解《のみこ》めなかつた。高田家の三代許り以前《まへ》の人が、藩でも有名な目附役で、何とかの際に非常な功績《てがら》をしたと言ふ事と、私の祖父《おぢい》さんが鉄砲の名人であつたと言ふ事だけは記憶《おぼ》えてゐる。其祖父さんが殿様から貰つたといふ、今で謂つたら感状といつた様な巻物が、立派な桐の箱に入つて、刀箱と一緒に、奥座敷の押入に蔵つてあつた。
四人の同胞《きやうだい》、総領の母だけが女で、残余《あと》は皆男。長男も次男も、不幸《ふしあはせ》な事には皆二十五六で早世して、末ツ子の源作叔父が家督を継いだ。長男の嫁には私の父の妹が行つたのださうだが、其頃は盛岡の再縁先で五人の子供の母親になつてゐた。次男は体の弱い人だつたさうである。其嫁は隣村の神官の家から来たが、結婚して二年とも経たぬに、唖の女児《をんなのこ》を遺して、盲腸炎で死んだ。其時、嫁のお喜勢さん(と母が呼んでゐた。)は別段泣きもしなかつたと、私の母は妙に恨みを持つてゐたものである。事情はよく知らないが、源作叔父は其儘、嫂《あによめ》のお喜勢さんと夫婦《いつしよ》になつた。お政といふ唖の児も、実は源作の種だらうといふ噂も聞いた事がある。
私の物心ついた頃、既に高田家に老人《としより》が無かつた。私の家にもなかつた。微《かす》かに記憶えてゐる所によれば、私が四歳《よつつ》の年に祖父《おぢい》さんが死んで、狭くもない家一杯に村の人達が来た。赤や青や金色銀色の紙で、花を拵へた人もあつたし、お菓子やら餅やら沢山貰つた。私は珍らしくて、嬉しくつて、人と人との間を縫つて、室《へや》から室と跳歩いたものだ。
道楽者の叔父は、飲んで、飲んで、田舎一般の勘定日なる盆と大晦日の度、片端《かたつぱじ》から田や畑を酒屋に書入れて了つた。残つた田畑は小作に貸して、馬も売つた。家の後の、目印になつてゐた大欅まで切つて了つた。屋敷は荒れるが儘。屋根が漏つても繕はぬ。障子が破れても張換へない。叔父の事にしては、家が怎《ど》うならうと、妻子が甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2
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