。
二
村に士族が三軒あつた。何れも旧南部藩の武家《さむらひ》、廃藩置県の大変遷、六十余州を一度に洗つた浮世の波のどさくさに、相前後して盛岡の城下から、この農村《ひやくしやうむら》に逼塞《ひつそく》したのだ。
其一軒は、東《ひがし》といつて、眇目《めつかち》の老人の頑固《つむじまがり》が村人の気受に合はなかつた。剰《おまけ》に、働盛りの若主人が、十年近く労症を煩《わづら》つた末に死んで了つたので、多くもなかつた所有地《もちち》も大方人手に渡り、仕方なしに、村の小児《こども》相手の駄菓子店を開いたといふ仕末で、もう其頃――私の稚かつた頃――は、誰も士族扱ひをしなかつた。私は、其店に買ひに行く事を、堅く母から禁ぜられてゐたものである。其|理由《わけ》は、かの眇目の老人が常に私の家に対して敵意を有つてるとか言ふので。
東の家に美しい年頃の娘があつた。お和歌さんと言つた様である。私が六歳《むつつ》位の時、愛宕《あたご》神社の祭礼《おまつり》だつたか、盂蘭盆《うらぼん》だつたか、何しろ仕事を休む日であつた。何気なしに裏の小屋の二階に上つて行くと、其お和歌さんと源作叔父が、藁の中に寝てゐた。お和歌さんは「呀《あ》ツ。」と言つて顔をかくした様に記憶《おぼ》えてゐる。私は目を円《まろ》くして、梯子口から顔を出してると、叔父は平気で笑ひながら、「誰にも言ふな。」と言つて、お銭《あし》を呉れた。其|翌日《あくるひ》、私が一人裏伝ひの畑の中の路を歩いてると、お和歌さんが息をきらして追駈《おつか》けて来て、五本だつたか十本だつたか、黒羊※[#「羔/((美−大)/人)」、180−下−15]をどつさり呉れて行つた事がある。其以後《それから》といふもの、私はお和歌さんが好で、母には内密《ないしよ》で一寸々々《ちよいちよい》、東の店に痰切飴《たんきり》や氷糸糖《アルヘイ》を買ひに行つた。眇目の老人さへゐなければ、お和歌さんは何時でも負けてくれたものだ。
残余《あと》の二軒は、叔父の家《うち》と私の家。
高田家と工藤家――私の家――とは、小身ではあつたが、南部初代の殿様が甲斐の国から三戸《さんのへ》の城に移つた、其時からの家臣なさうで、随分古くから縁籍の関係があつた。嫁婿の遣取《やりとり》も二度や三度でなかつたと言ふ。盛岡の城下を引掃《ひきはら》ふ時も、両家で相談した上で、多
前へ
次へ
全12ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
石川 啄木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング