《やや》肖《に》てゐた位のものである。背の※[#「女+亭」、第3水準1−15−85]乎《すらり》とした、髪は少し赤かつたが、若い時は十人並には見えたらうと思はれる容貌《かほかたち》。其頃もう小皺が額に寄つてゐて、持病の胃弱の所為《せゐ》か、膚《はだ》は全然《まるで》光沢《つや》がなかつた。繁忙《いそがし》続きの揚句は、屹度一日枕についたものである。愚痴《ぐちツ》ぽくて、内気で、苦労性で、何事も無い日でも心から笑ふといふ事は全たくなかつた。わけても源作叔父の事に就いては、始終《しよつちゆう》心を痛めてゐたもので、酔はぬ顔を見る度、何日《いつ》でも同じ様な繰事《くりごと》を列《なら》べては、フフンと叔父に鼻先であしらはれてゐた。見す見す実家《さと》の零落して行くのを、奈何《いかん》ともする事の出来ない母の心になつて見たら、叔父の道楽が甚※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《どんな》に辛く悲く思はれたか知れない。
恁※[#「麾」の「毛」に代えて「公の右上の欠けたもの」、第4水準2−94−57]《こんな》両親の間に生れた、最初の二人は二人とも育たずに死んで、程経て生れた三番目が姉、十五六で、矢張内気な性質《たち》ではあつたが、娘だけに、母程陰気ではなかつた。姉の次に二度許り流産が続いたので、姉と私は十歳《とを》違ひ。
三
記憶は至つて朧気《おぼろげ》である。が、私の両親は余り高田家を訪ふ事がなかつた様である。叔父だけは毎日の様に来た。叔母も余り家を出なかつた。
私は五歳《いつつ》六歳《むつ》の頃から、三日に一度か四日に一度、必ず母に※[#「口+云」、第3水準1−14−87]吩《いひつ》かつて、叔父の家に行つたものである。餅を搗いても、団子を拵へても、五目鮨《ごもくずし》を炊いても、母は必ず叔父の家へ分けて遣る事を忘れない。或時は裏畑から採れた瓜や茄子を持つて行つた。或時は塩鮭《しほびき》の切身を古新聞に包んで持つて行つた。又或時は、姉と二人で、夜になつてから、五升樽に味噌を入れて持つて行つた事もある。下男に遣つては外聞が悪いと、母が思つたのであらう。
私は、叔父の家へ行くのが厭で厭で仕様がなかつた。叔父が居さへすれば何の事もないが、大抵は居ない。叔母といふ人は、今になつて考へて見ても随分好い感じのしない女《ひと
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