或る時、彼の語りけるは、
‘同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能《あた》はず、
されど、我には何時にても起《た》つことを得る準備あり。’

‘かれの眼は常に論者の怯懦《けふだ》を叱責《しっせき》す。’
同志の一人はかくかれを評しき。
然《しか》り、われもまた度度《たびたび》しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯《しんし》にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて病の床に横《よこた》はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫語《うはごと》を口にせざりき。

‘今日は五月一日なり、われらの日なり。’
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕《ゆふべ》、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌《てっつゐ》のごとき腕《かひな》と、
しかして
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